飽かずに眺めてゐた。
 そして近頃の不思議な生活を今更のやうに考へたり、恰で形のない綺麗な妙にうら寂しい夢に誘はれたりしてゐると、頭の上から、
「何を独りでそんな処で考へ込んでゐるの、それとも何か目星しいものが見つかつたの?」
 と百合子が呼びかけた。――振り仰ぐと、百合子は恰度仁王像の肩から灯りと一処に覗き出てゐた。
「皆なは三階で休憩ですつて――それでね、お腹が空いてしまつたからパンを取りに行くついでに、ブラツク・ドラゴンの寝息を窺つて来る使命を亨けたのよ。途中まで一処に行つて見ない?」
 百合子が左う云ふので滝本が、其由を三階へ向つて声を掛けると、
「おーい。」
 と武一が呼応した。「――乾盃をしようぢやないか。何とかして来いよ。」
「さあ、早く/\!」
 百合子は滝本の手をとつた、「斯うすれば灯りなんて要らないわね――焦れつたいわ、こんな雪洞なんて……」
 ――扉を内に引くと、月の光りが、とても明るく流れ込んだ。振り返つて見ると、光りは恰度鶴の脚元の辺まで達して、白い翼だけがはつきりと浮び出た。手を執つたまゝ、駆けて長廊下を渡つた。それでも、歩きながら斯んなことを話合つた。
「妾――昨夜からちつとも眠れなかつたわ。」
「百合さんの不眠症なんて信じられないようだが。――それで、ベロナールなんて持つてゐたんだね。だけど、あんなものを常用すると毒ださうだぜ。」
「いゝえ、違ふわよ。それはあの人達に……」
 と云ひかけ百合子は、急に立ち止ると、滝本の胸に凭りかゝつて、
「ね、斯んなやうなところ何かの芝居にありさうぢやないの――科白よ。」
 と戯れた。「一服盛つてやるつもりで、わざ/\取り寄せて置いたのでございますわ。」
 そして彼女は、滝本の胸に顔をおしつけて堪らなさうに失笑《わら》ひを怺へた。それから彼女は、これから行つて見て未だ二人が寝込んでゐたら一層のこと、そつと牢屋の中へ投げ込んでしまはうか、眼を醒して驚く奴等の顔を見てやりたい――などと云つた。
 書院の前まで来ると、百合子は再び雪洞に灯を入れて、暫く滝本に其処で待つてゐて呉れと云ひ残して、ふわ/\と駆け出して行つた。何処にも灯りひとつ見えない長い廻り縁を伝つて行く百合子の姿は恰で宙を駆けてゐるやうに見えた。それまで気づかなかつたが、羽織の下の百合子の服は、真ツ白な長い袴《スカート》だつたので、それが灯りの影に煙りのやうに翻りながら汀の廻廊を折れ曲つて見る/\うちに闇の中へ吸ひ込まれて行つた。――自分に気づいて見ると滝本は未だちやんと剣術道具に身を固めて、面を被つてゐたから、その鉄格子を透して眺めるせいか、稍ともすると一つの物のかたちが二つにも三つにもなつてチラチラした。彼は竹刀を小脇にして欄干に脚を掛けたまゝ、暗闇の中で百合子の復命を待つてゐた。
 五分、十分……と凡そ二十分近くも待たされたかと思はれる頃ほひ、其処から恰度泉水を越へて真向にあたる遥かの部屋が、突然ぱツと明るくなつた。丸窓のある――「あれは百合子の部屋ぢやないか」と滝本が呟いた時、向ふの端から順々の座敷に一勢に灯が燭《とも》つて、直ぐ眼の先の茶室までが急に明るくなつた。滝本は思はず身を退いて、書院の中へ秘れた。彼は激しい鼓動に襲はれながら、竹刀の束に手をかけてゐた。――と、また座敷中の灯りは一|時《どき》にスヰツチを切られて、丸窓だけが大提灯の様に向方の闇の中に浮んでゐた。
 窓から姿を現したのは百合子だつた。
「もう誰もゐないのよ。――あの人達二人は急に気分が悪くなつてとつくに帰つてしまつたんですつて――葡萄酒を見つけたから皆なを招んで頂戴な。」
 で滝本が蔵中へとつて返さうと、渡り廊下のところまで来ると、あまり此方が時間をとつたことを案じて武一達も降りて来たところだつた。武一は、袋に入つた薙刀を担いでゐた。そして、
「こいつは、何とかいふ古刀で、柄の処々に金などが巻いてあるから相当なものだらうと思つて持ち出して来たよ。竹下の箱は白磁の観音の像だ。落すと割れてしまふから――」と、後の竹下を振り返つたのを滝本が見ると、彼は長さ三尺ばかりの大きさの箱を縦に、子供を背《せほ》ふたやうに十文字に細紐で背中にくゝりつけてゐた。
「村井は?」
「……あいつは錦絵に見惚れてゐて動かうともしない。呼んで来て呉れ。」滝本が蔵の三階へ上つて行くと、村井は行灯の傍らで、面も何も脱ぎ棄てゝ、素晴しい興奮の眼を輝かせてゐたが、足音を耳にすると、慌てゝ灯りを吹き消した。
「俺だよ、村井! 何うしたんだ?」
 滝本は懐中電灯をつきつけた。
「百合さんぢやないかと思つて吃驚したんだ。――おい、この猛烈な絵を見ろよ。……驚いたなあ!」
 ――グロテスクな戯画の巻物だつた。村井は、滝本の眼の先でそれらの巻物の数々を手早く繰り展げて行つた。その手の先は微かに震へてゐた。極彩色の、現実離れのした綺麗な男女の滑稽な痴態の有様が村井の繰り展《の》べる巻物の中で行列を成してゐた。
「つまらない――」
 と滝本は云つた。滝本は、斯る類ひの草紙は、余程予猶のある場合に美術的に鑑賞する以外には、興味もなかつたので、静かに村井の腕を引いて、母家へ促した。
「先程《さつき》俺達が此処へ来て見ると、これが――」
 と村井は尚も未練がましく、散乱した草紙類を振り返りながら「このまゝ、此処に行灯の下に展げ放しにしてあるんだよ。つい先程まで確に誰かゞ眺めてゐたに違ひないといふ風に、……」
 彼は、恰で酒にでも酔つてゐるかのやうに常規を脱《はづ》れた声の調子だつた。「それあ、お前、誰だと思ふ、いや、誰が、此処で、これを眺めてゐたと思ふ?」
「そんな事何うでも好いぢやないか。お前は大分何うかしてゐるぞ、馬鹿だな!」
 滝本は、仕末の悪い酔つ払ひをあしらひ兼ねるように手古《てこ》ずつた。
「あゝ、俺は実に悩ましい、この次に此処に踏み込む俺の唯一の目的は、あゝしてあの行灯の下で……」
 そんなことを唸つて恰で生体ないかのやうな酔つ払ひ見たいな村井を滝本が漸く引つ張つて、渡り廊下の処まで来ると、雪洞をかゝげて飛んで来た百合子に突き当つた。
「まあ、あんた達は何を愚図々々してゐたのよ。皆なが待つてゐるのに――」
 すると村井は、酷く狼狽して、
「いゝえ、あの……珍らしい剥製があんまり沢山あるので――」
 などと吃音で紛《ごま》かした。あまり村井の様子が生真面目なので、滝本も却つててれ[#「てれ」に傍点]臭くなつてしまつて、
「東京へ行く時にはあのミンミーを籠ごと持つて行かうぢやないか、アパートの装飾に丁度好いぜ。」と、幾分後暗い見たいな思ひを秘しながら空呆けると、いきなり百合子は、
「嘘つき!」
 と叫んで、晴々しく嗤つた。そして、非常に大きな声で、
「いやあな人達! あんな絵を夢中になつて見てゐるなんて……ハツハツハ!」
 左う云つて腹を抱へながら駆け出して行つてしまつた。
 滝本は得体の知れぬ不安に襲はれた。と、村井が、太い吐息と一処に「困つたな、守夫……」と、これも、真ツ赤になつて、出そびれてゐた。
「今日は一晩中騒いでやれ。家もそともあるものか。おーい、お勝手の者――ほんとうの酒を持つて来て呉れ。主人がお客様を伴れて帰つて来たんだぞ!」
 座敷の方から武一が荒々しく喚きたてゝゐる声が響いてゐた。彼方此方に灯りが点いて、人々が行き来する影が慌《せは》し気に障子に映り出した。――百合子の丸窓を見ると、駆け込んで来た彼女が、羽織《ジヤムパア》を脱ぎ棄てゝ露はな腕に何か箱のやうなものを抱へて、また走り出て行く姿が映つたりした。

          *

 其後、これが初めての訪れである。あの晩の、余りにも野蛮な酒宴《さかもり》から様々な失策を演じた後なので、一同は、今宵こそは一層心を引き締めて仕事に掛らなければならぬと注意して、R村へ差かゝつた。
「おゝ、白い旗だ。しめたぞ。」
 丘の上に駆け上つて、望遠鏡を眼にあてた竹下が後ろを振り返つて呼ばはると三人は、一勢に腕を挙げて、ブラボーと叫んだ。
 暮れかゝつた盆地の一隅に森家の甍がそびえ立ち、展望窓には、たしかに白い旗が翻つてゐた。そのあたりを二三羽の野鳩が悠やかな円を描いてゐた。――村井は、竹下から眼鏡をとつて、凝つと土蔵のあたりを見極めてゐた。遥か彼方の紫色の山々は、夕映えの僅かな余光を浴びて頂きのあたりを黄金色に輝かせてゐたが山裾一帯は見渡す限り茫漠たる霞みの煙に閉されて、森家の土蔵の白壁だけが黒い林の中に一点、窓のやうに輪郭を遺してゐる。
 今度は滝本が眼鏡を村井から奪つて、眼にあてたが、もう薄闇が一面に棚引いてしまつて盆地一帯は涯しもない海原のやうだつた。――乾盃々々《プロージツト・プロージツト》! 皆なが無茶苦茶になつてしまつてあの晩のことは半ばは有耶無耶で何も思ひ出すことは出来なかつたが、左うしてゐると滝本のレンズに、大写しになつた百合子の不思議な艶かしさを湛へた姿が、夢になつて、ほのぼのと浮びあがつて来た。――ミンミーがよみがへつて、剥製の仲間達の間を歩き廻つてゐるかと思ふと、やがて、ジヤツキも木兎も大鷲も徐ろに蠢めき出して、溜息や、羽ばたきの音が起つた。

     九

 あの頃のローラは一体いくつ位ゐであつたかしら? たしか自分が大学へ入つて間もない頃で、父親の友達であつたアメリカ人のR氏の家庭にローラと共々寄食して、横浜から、東京の学校へ通つてゐたが、今見ると、たとへ妹とは云ふものゝ無闇に齢などを訊くのは差控へずには居られない、もうちやんとしたレデイになつてゐて――滝本は少々勝手の違ふ心地に誘はれてゐた。その上、子供の頃の面影もそれほどはつきり思ひ出せなくなつたが、髪の毛のすき透るやうな鳶色の具合、眼の玉の碧さ、そして皮膚の白い陶器に似た艶の態《さま》は、相当の注意を向けて眺めても混血児とは解らなかつた。そんなやうなことで彼女が何か片身の狭い思ひでもしてゐるのではなからうかなどゝ憂へた験しもあつたが、凡そ他の西洋人達の中に見比べても見境ひのつかぬのを知つて、滝本は、自分で可笑しく思ひながらも秘かに胸を撫で降した。もう一つ別に、彼に安易さを覚へさせたのは、彼が心配したように「生活」を求めて彼女が訪れて来たのではなくつて、全く単純な観光客として、小さな観光団に加つて、序でに、眼色の変つた兄貴にも会つて行かう――位ゐの、全く安楽な状態で、遊びに来たのであるといふことだつた。一行と一処に帰国しても関はないし、都合に依つては自分だけ滝本の許に幾月でもとゞまつても差支へないといふ話であつた。
 滝本が、この頃の自分の生活のかたち[#「かたち」に傍点]に就いて最も手短かに説明した後に、今では皆なで森の屋敷を占領して、日本の old《オールド》 Romance《ローマンス》 の時代を髣髴するやうな空気の中で学生らしい日々を送つてゐる――といふことなどを伝へると、ローラもその仲間に加はりたいと云つた。
 一行は日光から松島を見物して、引き返して関西へ赴くところだつた。横浜と東京で二三日行動を共にして一端村に引き返してゐた滝本は百合子を誘つて、国府津駅で、一行に別れを告げて村へ来る筈のローラを待つた。
「ローラさんは日本語が出来る?」
「大分拙くなつたが、直ぐに慣れる程度だよ、あの位ゐでは――。前には此方こそRさんの家庭ぢや英語ばかりだつたんだが、今度会つて見ると恰で僕が、それが出来なくなつてゐるのに驚いたよ。それに比べるとローラの日本語の方がずつと確かだつたよ。」
「妾も日本語でないと困るわ。だけど英語だと、とても日本語ぢや云へさうもない感情的なことが――平気で云へるのは面白いと妾思つてゐるのよ。」
「例へば何んな風に?」
「何んな風と云つても困るけれど……」
 と百合子は愛嬌に富んだ首を大業に傾けて何か思ひ付いたことを云つて見ようとする思案の眼を挙げたりした。
 間もなく列車が到着したので二人は会話を断《き》つて、用意をしてゐると、ローラは窓から伴れの人達と一処に半身を乗り出して切《しき》りと手布
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