うな意味を誌した後に、
「真に古めかしい物語の通りになつてしまつたわ。で、あなたはあの時あたしが云つたやうなほんとうのナイトになつて、この次の此方からの便りの指定に従つて、その晩、ハルツの塔に幽閉されたお姫様を救ひ出しに来なければならなくなつたのよ。一先づ、そちらの消息をこの鳩に托して報じて下さい。」
 と書いてあつた。

     六

「空しく里に帰りて楯の蔭にあり。」
 森武一は、唇を噛みながら斯んなことを書き誌してから、[#ここから横組み]“St. Patrick《パトリツク》”[#ここで横組み終わり]と、署名した。
「では、俺は――」
 村井は、重い剣でも執りあげる身構へ見たいにシヤツの袖をたくしあげながら、
「Sebra《セブラ》 の意気込みだ。」
 と名前《セブラ》を連ねた。
「昔、勇士ありけり、その名を St. Authony《オーソニイ》 となん称びて、勇気に恵まれ、婦女を敬ひ、智謀に富む、長じて|南方の騎士《シルバー・ナイト》の旗下に馳せ、|青き炎の城《マジツク・ガーデン》を探るべく……」
 竹下は、奇妙な文句を暗詠《そらん》じながら物々しく筆を執つて[#ここから横組み]“|The Coming of St. Authony《オーソニーもやつてきた》”[#ここで横組み終わり]と書いて性急な咳払ひを続けた。
 パトリツクと云へば、|翼のある白馬《ペガウサス》に打ちまたがつて、地獄の魔王から「如意の剣」を奪ひとるクリステンデムの「赤靴下《ダンデイ》」だ。クレテの海底に埋没したカビールの女王の腰帯を索《もと》めに水底を掻き潜る長|呼吸《いき》の選手の名だ、セブラは――。
 ――何うも、冗談なのか、真面目なのか滝本には、これらの「シルバー・ナイト」の鼻息のほどが解らなかつたが、自分の番になつたので、同じく単に無言の健在の意を知らせるだけのつもりで自分の名前を誌すと、傍らから武一が早速見とがめて、
「そんな呑気な名前なんて書き入れて、若しも堀口の一味にでも――」
 と、鋭い注意を与へた。「前にも俺は伝書鳩《ネープ》を彼方の森で打たれたことがあるぢやないか、それ、この前の総選挙の時だつた、疑り深い彼等はそれを反対党へ送る秘密通信か何かと間違へて……」
「選挙の時だつたが、然しあれは篠谷の太一郎がお百合に宛てられた手紙を変な風に感違ひして、ネープが飛んだ犠牲になつてしまつたわけさ。」
「酷い奴だな。――此頃彼奴は蜜柑畑のリラを追ひ廻してゐるさうだが、消息を聞かないかね?」
「聞かない。」
 と滝本はかぶりを振つた。蜜柑畑の働き手である此処の家の留守居の年寄の娘が、リラの花のやうな感じだといふので彼等はさう称んでゐたが――。蜜柑の季節になるとカーキ色のシヤツで、まるで少年のやうな姿で、畑の手伝ひをしたり、口笛を吹きながら御者台に乗つて問屋へ運ぶ荷物の馬車を駆つたりしてゐる八重といふ娘である。「八重《リラ》なら大丈夫だよ。太一見たいなあんなでれ/\した野郎が、変に云ひ寄つたりすれば、あの鞭でひつぱたかれる位ゐのものだよ。」
「……ネープのことを思ひ出すと俺は、何うしても太一の奴と……」
 武一は、もう今ではこの一番《ひとつが》ひより他に残つてゐない伝書鳩《ハンス》を籠から取り出して、可憐で堪らなさうに頬を寄せてゐた。
 滝本は、いつか武一が血に染つたネープの骸《なきがら》を拾ひあげて、泣いて――何う慰める術もなかつたあの日の事を思ひ出した。篠谷の倅の太一郎がステツキ銃でねらひ打ちにしたのである。
 銃声を聞いて――ネープの姿を見送つてゐた武一と滝本の眼に、同時に、ネープが燕のやうに腹を反して転落する態《さま》が映つた――二人が駆けつけて見ると、
「僕は野鳩のつもりで打つたんだよ。」
 太一郎が脚下のネープを指して寧ろ得意さうに呟いた。――武一は、たらたらと血潮がしたゝり落ちるネープを懐中《ふところ》の中に乗せると、素肌の胸に直接《ぢか》に当てゝ、彼女の体温を見守つてゐたゞけだつた。
「君は――」
 と滝本は思はず理性を失つて太一郎の肩をつかんだ。「さつき僕等がこれ[#「これ」に傍点]を飛ばさうとしてゐるそばを通つて――解つてゐた筈ぢやないか!」
「この辺には鳩は多いからね。」
 太一郎は皮肉な抗弁を試みたが、唇は微かに震へてゐた。――。
「僕はこの通り官札を持つた遊猟家なんだから……云へば、まあ、それは気の毒なことをしましたな――と、それだけの挨拶で済む筈だよ。」
「遊猟家だつて!」
 その言葉に滝本は、無比な憤りを覚へて、力一杯つかんでゐた肩先を圧《お》した。「鳩についてゐた手紙は何うしたんだ。君は、その手紙を見る為に、斯んな酷いことをしたんだらう。」
 その頃武一は滝本の処へ鳩の籠を運んで来ては、自家までの伝達の練習をつけてゐた時分であつた。――武一の家の屋根で、百合子がそれを待つてゐる役だつた。だから此方から飛す時に別段用もなくても何かしら通信文を認めて送つたりしてゐたのだ。屋根の上で、それを百合子が読んでゐるところを、太一郎は何時も遠くから眺めて、余外《よけい》な感違ひを起して好奇心を持つたのである。
 その時のは何んな内容だつたか滝本も忘れたが、
「うむ――それは……」
 太一郎が狼狽の色を露にして、
「手紙とは知らなかつたさ。妙なものがついてゐると思つて見たゞけだよ。そこに棄てゝあるよ。」
 草むらの蔭を指差したので、滝本が腕を離して、そつちを探さうとすると、
「あツ、間違へた――僕は、うつかり懐中へしまひ込んでゐた!」
 と慌てゝ太一郎が飛びのきながら示した紙片《かみきれ》を見ると、表に滝本が徒らに大きく書いた百合子の宛名があつて、そして、もう封が切つてあつた。滝本が更に責め寄らうとすると、もう太一郎は五六間も先へ逃げてゐて、振り返つて、
「好い気味だ。鳩位のことで泣きツ面をしてゐやがら――。今にもつと物凄い痛手を喰はしてやるから覚へてゐろ!」
 などゝ、いわれもない罵りを浴せて、一散に駆け出して行つた。夢中になつて滝本は追ひかけようとすると、ネープを抱いたまゝ草の上に倒れてゐる武一に気づいたので、武一の方へ駆け寄つた。
 裏山の櫟林の一隅には、その時武一と滝本が拵へたネープの墓が今も在る筈だ。
「で、守夫は、St. David《ダビツト》 といふことになつてゐるんだよ。」
 独りで点頭きながら武一が指命したので滝本は、わけも知らずに左う書き換へた。
(これは後になつて滝本は読んだのであるが、それらの名前は村井の、彼がいろいろな古典の騎士物語や神話中の人物を引用して、それに自分達の心象、経験、憧憬等を仮托しながら創作した新しい浪漫派の歴史小説中のことになぞらへてゐたのであつた。)
 メデユーサと称ふ女悪魔の従妹であるボーラスは夫を殺し、新しい夫を迎へるために、先の夫との子供であるパトリツクを邪魔にした上句玄関番の悪竜《ブラツク・ドラゴン》に命じて、彼を殺さうとした。|南方の騎士《シルバー・ナイト》の一員に加はる念願でパトリツクが或日、家を棄てゝ旅路に上つたところを竜《りう》は闇の森蔭で待伏せした。竜《ブラツク》は、その両眼を、パトリツクがその下を眼指して進路を運ばなければならないオリオン座の星のやうに輝かせて、巧みに誘き寄せた。南方の騎士の館は、オリオン座を横切る銀河のほとりに位してゐる。――思はぬ眼近にオリオンの星を見出したのでパトリツクが雀躍しながら駆け寄つた時に竜はいきなり火焔の洞窟と見紛ふ口腔《くち》を開けて迫つた。が、パトリツクはその時、寧ろ自ら進み寄つて、一気に、最も身軽な三段飛びで、身を翻して化物の肚の中へ飛び込んでしまつた。だから五体には化物の歯型一つ痕《のこ》らなかつた。ボーラスの玄関番《ブラツク》は、思はぬ失策をしてしまつて眼を白黒させながら思案したが、肚の中のパトリツクを殺すためには自分も死ななければならぬといふ手段《てだて》より他に、何んな考へも浮ばなかつた。彼は、このまゝではボーラスの館に帰るわけにも行かず、死ぬ決心は決してつかず、泣きながら彼方此方の山々をうろつき回つてゐた。その間にパトリツクは揺籠よりも快い竜の腹の中で充分の眠りを執り、適度のオーミングも役にたつた。竜は腹の中の重味を持ち扱つて愚図/\してゐる間に、激烈な神経衰弱に襲はれて、青い湖の傍《ほとり》まで差しかゝると列車が停止するやうに静かに悶死した。パトリツクは竜の腹から這ひ出て、湖の岸で顔を洗はうとすると、水の中に、久しい前から行衛知れずになつてゐた妹のアニマスの顔が映つてゐた。後ろを振り仰ぐと、バベルのやうな高塔がそびえてゐた。塔の頂上の窓から、アニマスが半身を乗り出して、救ひを呼んでゐるらしかつたが声はとゞかなかつた。
 二人は、幼い頃にエヂプトから来た家庭教師の星占ひの博士に教へられた、体操に依つて表示する象形文字の信号法を思ひ出して、自由な会話を始めることになる……。
 閑話休題《さて》、パトリツクは、竜の腹に眠つた間に「争はずして悪魔を退治する術」を感得した楯を持たぬ騎士の名前である。ダビツトはパトリツクの友達で、アニマスの恋人である。
 海の上からは発動機船の円かなエンヂンの音が悠やかに響いてゐた。白雲の影ひとつ見あたらぬ澄みきつた青空であつた。
 そこで武一は、出来あがつた「メツセージ」を伝書鳩のハンスに結んで、
「さあ、飛すぞ!」
 と一同に合図した。――党員達は胸先に十字を切つてハンスの行手の安全を祈りながら、交々その翼に接吻《くちづけ》を贈つた。――やがてハンスは武一が徐に眼上にさゝげた掌の上で、疾る党員達の心を圧鎮めるかのやうな沈着な羽ばたきと共に、青空を指してゆらゆらと舞ひ上つた。そして党員達の頭上に、円光のやうな輝かしい螺線の輪を描きながら、R村の方角を見定めると、丘の彼方を目指して流星の勢ひで姿を没した。
 皆は、何んな事件が起らうとも朝の幾時間かは夫々自分のための仕事にたづさはるといふ掟の下に、プレトン流の共和生活を始めたところなので、この第一日の朝も斯うしてハンスを見送つてしまふと、急に黙り込んで家の中へ立ち戻つた。
 竹下は、スケツチ・ブツクを携へて水車小屋の見える街道を横切つて行つた。村井は、滝本の書架から二三冊の詩集をとり出して、また庭に出て芝生に寝転んでゐた。夏の砂日傘《サンド・パラソル》を立てゝ、彼は、その影で、
「マイエーの蛮族は草を追ふた、妻と子と家畜を従へ、一袋の銀貨を腰につけ――」
 などゝ、詠《うた》ひながら創作の構想に耽つてゐた。
 滝本は、自分の部屋に来て机に凭つたが、空け放された窓から見える明るい丘をぼんやり眺めてゐた。――見ると、ジクザクの山径を脚速く昇つて行く人形のやうな男が此方を振り返つて帽子を振つた。――武一である。滝本も手を振つた。
 間もなく武一は頂きに達すると、雲ひとつ見えない青空をスクリーンにして武張つて大の字に腕を挙げ、熱い意気を示すかのやうであつた。――丘に反射する雨のやうな陽《ひかり》が眼ぶしく明る過ぎて、武一の姿だけが、見霞むデイライト・スクリーンの真ン中にぽつんとシルエツトになつて映り出てゐるので、一体何方を向いてゐるのか見定め憎かつた。が、一息つくとそのまゝ向ひ側に降りて行つたので、此方を背にしてゐたことが滝本に解つた。武一は、丘の向ひ側の村にむかつて、武張つてゐたわけである。ハンスの行手を見定めに行つたのだらうと滝本は思つたが、それにしては大分力の容れ具合が凄じ過ぎる! と軽い不安の念に打たれた。
 俺は今のところ君達のやうに自分の仕事を持たぬ身であるから、その時間には、独りで思つたまゝの事を遂行してゐる――武一は、さつきそんな事を云つてゐたが? ――と滝本は思ひながら、翻訳の仕事を展げてゐた。彼の仕事は、星学大系といふ出版物の一部分であつた。

     七

 八重の家は水車小屋に並んだ村境ひの、馬蹄の中に塚本と誌したくゞり戸のついた鍛冶屋である。父親は蜜柑畑の仕事を持つて殆んど滝本の方に寝泊りをしてゐるし、兄
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