たから、時には花々しいユニフオームを着けた年頃の娘が騎手となつて競技場に現れることも珍らしくはなかつた。八重や百合子も、嘗ては晴れのレースに出場した経験を有つ身であつた。
「リリイか、ラツキーなら――妾も、もうすつかり慣れたから独りでも乗れる。」
 競馬のいきさつに就いては了解し憎かつたらしいローラは、騎手になるといふ意味からではなしに、そんなことを進んで云ひ出し、何時か皆なで轡を並べて昆虫採集に行つた時のやうに今日もこれから、めいめいに馬に乗つて海辺へ行かうではないか――
「山を一ト回《めぐ》りしながら――」
 と誘つた。
 その朗らかな提言で滝本と竹下の亢奮は静まつたが、滝本は、早速「騎手」の練習に取りかゝつて見たかつた。ローラは、ウヰルソン先生にデヂケートする目的で、このあたりの野生植物やら昆虫類の標本を作ることを主な仕事としてゐた。
 娘達が乗馬服に着換へる間に竹下と滝本と八重の父親が、街道に出て、何時ものやうに知り合ひの水車小屋から「ワカクサ」、蜜柑山の倉庫番から「アサカゼ」「ミドリ」、そして酒造家の厩から「ドリヤン」などゝいふ馬を借り出して来た。
 竹下はギターとランチ・バスケツトを携へてアサカゼに、ローラは捕虫網を翻してリリイに、百合子は海水着の袋を鞍につけてワカクサに、八重はローラの採集箱を肩にかけてミドリに、そして滝本は空身《からみ》でドリヤンにまたがつた――蝉がかまびすしく鳴き立つてゐる森を抜けて河堤に出た。朝の運動を終へて戻つて来る村中の「競馬馬」が、此処彼処に颯爽たるいなゝきを挙げて、恰で何処かに馬市でも開かれるかのやうに、街道も河堤も山径も間断もなき程凄まじい人馬の往来であつた。――この村には何んな貧しい家にも少くとも一二頭の馬を飼育してゐない処はない――馬の村であつた。競馬の季節が近づくと、村中の人々は一切の野良仕事を放擲して、それぞれの飼馬の訓練に寧日なき有様であつた。懸賞競馬に優勝すると凡そ一ヶ年分の生活費が賞金として獲得出来るといふ仕組であつたから、季節が迫るに伴れて村全体が競馬の熱に浮されて、様々な暗闘やら策略やらで渦巻いて異様などよめきが漂ひはじめるのが慣ひであつた。
 此方の一隊のやうに、斯んな切端詰つた時期に幾分の余技的ないでたちで練り歩いてゐる光景は寧ろ人々の眼に謎の感を与へるかのやうであつたが、今日は、先頭に立つた滝本の何時にない颯爽たる様子が、恰度|往来《ゆきき》の馬を伴れた村人の真剣な眼付きに匹敵して決しておくれるところのない殺気を含んでゐた。――何処の馬の今年のコンデイシヨンは何うだ? といふ観察をするために往来の人々は互ひに疑念に富んだ眼を挙げて、互ひの馬の様子を窺ふのであつたから、事更に、敵方の油断を盗むために呑気らしく馬車を曳かせたり、枯草を積んだりしながら秘かに、着々と訓練の鞭をふるつてゐる権謀家も多かつた。だから、滝本達の一行が、そんな装ひで隊伍を組んで行くところを反つて意味あり気に打ち眺めて、
「仲々、何うも御精が出ますな!」とか、
「騎手のそろつたところは見事だが――」
 馬の数が足りないであらう! などゝ嘲りを送る者もあつた。
「騎手が足りないで困つてゐる篠谷や堀口なんていふお大尽があるかと思へば、他所の馬を借り出して……」
 河の淵で馬の体を洗つてゐた男が、滝本の方を向いて、そんなことを云ひかけた時、
「これがね――君!」
 と滝本は傲然として云ひ返した。「都合に依つたら俺達の組ぢや、この同勢がこのまゝ今年の競馬に出るかも知れないんだぜ、此方の云ひ分次第では馬も悉く吾々のものになるといふ事にもなつてゐるんだから――」
「お前さんは、この馬が、今度堀口さんが買つた馬だつてことを知らないのかね? 馬は相当なんだが乗手がなくつて、堀口さんは血眼になつてゐるといふところさ――」
 はぢめ堀口は八重を物色したのであつたが、それが失敗したので今では、滝本の実家の名前を持つてローラを呼び返して騎手に仕立てようと計画してゐる――などゝいふことを男は滝本に告げた。村では、騎手は男よりも寧ろ娘の方が歓迎されはぢめてゐた、この二三年以来――。美しい娘が、きらびやかな男姿のユニフオームをつけて競馬場に現れると観衆は万雷の拍手を浴せて、しやにむに彼女に投票を送つて、恰でレビウ見物のやうな騒ぎに酔ふのであつた。その人気に圧倒されて大枚の男達は色を失つて敗北してしまふのが例で、近頃はもう殆ど騎手は娘に限られてゐるといふ状態であつた。女流スポーツが近年世界的の人気を負ふてゐるやうに、年毎にこの村からは花々しい女流騎手が出現した。女学校でも運動課目の分科として、乗馬を奨励して、選手の養成に余念がなかつた。
 滝本は、それ[#「それ」に傍点]に、たつた今気づいた。これは自分が騎手になつたつて始
前へ 次へ
全27ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング