の窓から滝本がまぶしさうな顔を出して、
「やあ、今朝は素晴しい天気だな!」
と水々しい空を見あげた。
「だから、フランクも俺達と一処に海へ行きません?」
ローラが窓側に駆け寄つて滝本の手を執つた。――「あゝ、間違へてしまつた、また! ――俺……ぢやなかつた、妾達と一処に。」
ローラの日本語では、何時も囲りの者は笑はされたが、別段訂正しようとする者もなかつたので彼女は、男達の会話をそのまゝ模放して屡々突拍子もない言葉を使ふのであつた。
「だけど僕も、ほんの少しゝか眠つてゐないんでね……」
滝本も、村井と競ふて徹夜することが多かつた。「星学大系」の翻訳を、夏のうちに片づけて、矢張り皆なと一処に間もなく新しい生活を目指して東京へ出発する筈だつたから――。
「斯んな綺麗な天気は、おそらく一ト夏のうちに三度とは見られないであらう素晴しさだぜ――行け/\!」
と竹下はすゝめるのであつた。「村井の奴も無理矢理に引きづり起して来いよ。」
「武一は?」
「兄さんはね――毎朝とても早くからラツキイを伴れ出して、競馬場へ通つてゐるわ――馬車は八重ちやんところのリリイが曳いてるのよ。」
草競馬の季節が近づいたので武一は、これが最後だといふ意気込みで、ラツキーのオーミングに余念がなかつた。その懸賞競馬にラツキイを出陣させて、皆なの出京費を儲けるといふ意気込みだつた。村井の「南方の騎士」にしろ、滝本の「星学大系」にしろ相当の報酬が得られる筈なんだから、もう隠退することに決めたラツキイを今更レースになんて出さない方が好からうと皆なが忠告するのも諾かず武一は、堀口や篠谷達への手前にも、何うしてもラツキーを勝たさずには置かない――と無闇に躍起となつてゐるのであつた。
篠谷の太一郎は新しい馬を購入して、競馬場の人気を引きさらつてやる――といき巻いてゐるといふ噂だつた。堀口も亦近頃新しい馬の持主となつて、何某といふ騎手を手込めにして大儲けを仕ようとたくらむでゐるといふことであつた。道理で、近頃彼等は、こゝの家の土蔵のことにも、ローラに関する遺産の横領に就いての戦略にも(或ひは、此方側がそれに関しては余りに恬淡に放擲したので首尾好く占領し終せたものか――。)頓着なく、馬で、気狂ひになつてゐるといふ話であつた。
「リリイは出さないの?」
滝本が不図八重に訊ねると、
「えゝ――」
と八重は、点頭きながらうつむいてしまつた。滝本が追求すると、理由は好く解らないけれど、太一郎や堀口が何か七郎に向つて悸すやうなことを云ひに来たので――といふやうなことを苦笑を浮べて八重が云つた。
「ラツキーの代りに、リリイは、今は此方に任してあるが――ほんとうは、もう篠谷の持物に変つてゐるんですつて!」
「そんな馬鹿なことはない。七郎が好人物だと思つて、彼奴等は何処まで人を喰つた真似をするんだらう。――ラツキーを取り戻すためには、ちやんと、あの――」
と滝本は思はず口走つて、
「俺達が蔵から持ち出した鎧櫃やら巻物を売つた金を……」
云ひかけて、何も知らない八重に向つて亢奮の気色を示し過ぎたことに気づいて、
「ねえ、竹下――酷《むご》いことをする人達だな、どこまでも――」
と、汀の石に腰を降して鯉を眺めてゐる竹下に呼びかけた。
「何うしても俺は、太一郎といふ奴を擲《なぐ》らずには居られなくなつた。」
竹下は立ちあがつて、腕を滝本の眼の先へぬツと突き出した。
「関はず、此方でリリイを出すことに仕ようぢやないか。」
滝本は微かな震へ声で唸つた。
「然し、それがもう太一郎の持馬と変更されてゐるとしたのなら何んなものだらう?」
竹下の声は不安に戦いてゐた。
誰も気づかなかつたが、さつきから八重の父親が泉水の向ふ側で水の上の落葉を拾つてゐた。そして此方の話を聞いてゐたと見へて、網の竿で水を叩きながら、
「なあに――若しもあなた方がリリイを使ふんだつたら御自由ですとも――決して、未だ篠谷に譲り渡したわけぢやないんだし……そんなら今のうちだ。」
と独り言のやうに呟いた。
「よしツ――ぢや、俺が、リリイの騎手になつて、太一郎と戦つてやらう!」
滝本は、窓から、未だ朝露に濡れてゐる庭石の上に飛び降りながら叫んだ。
この村の競馬といふのは主に、その馬の持主が騎手になつて出場するといふ――奇妙な風習であつた。馬も亦、決して専門の競馬用のものではなくつて、普段は野良に出て田を耕したり、馬車を曳いたりしてゐる労働馬を並べて、一種独特の地方色に富んだ競技を戦はすのであつた。それで、それ程の老体でもなかつたが騎手になることの出来ない堀口は、秘かに騎手の物色に余念がないわけなのであるが、それは明らかに反則行為の筈である。騎手は、持主か、でなければ、その家の家族の一員でなければならぬ掟であつ
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