に道がなかつた。それで今になつて見ると百合子が、あの屋敷に伴れ戻されてゐることは、味方にとつては幸ひになつたわけである。百合子は土蔵の鍵を秘蔵して夜々《よな/\》彼等を導き込む役目を果しつゝあつた。堀口や継母や篠谷達もこれに目をつけて、鍵の在所《ありか》を家探しゝてゐるさうだつたが、そして彼等も亦百合子に依つてそれ[#「それ」に傍点]を尋ね出さうとあせつてゐたが、百合子は飽くまでも空呆けて、
「それはお父さんでなければ解らないわ。G町へ行つて訊いていらつしやいよ。」とはねつけるだけだつた。森の主は、この屋敷に見限りをつけて三駅ばかり離れたG町へ移つて、隠遁の夢をもくろんでゐるだけだつた。そして決して此処に脚踏みしようとはしなかつた。
堀口と継母が百合子を此処に伴れ戻した理由は自づと了解されたわけだつた。
「ねえ百合さん、あんたが鍵の所在に就いては前々から解つてゐるからと父さんだつて左う仰言つてゐるんですよ。整理上とても困つてゐるんですから、そんな意地悪るをしないで渡して下さいよ。」
「それさへ教へて下されば太一郎君の方だつて、一切もう穏便にして、先づラツキイをあなたにお返しすると云つてゐるんですよ。競馬だつてもう目近に迫つてゐるし、ラツキイがとり戻せるんなら、斯んな得なことはないぢやありませんか。」
堀口や太一郎は、可笑しい程神妙になつて斯んな風に百合子に迫つた。そして自分達の眼のとゞかぬ時は、篠谷側の雇人達を屋敷の中に配置して百合子の動作を監視せしめた。森家の雇人と彼等との間にも百合子を中心にして絶え間のない暗闘が繰り反された。
「お前さんといふ人は、何うして左う強情なんだらう……」
時々訪れて来る継母も堀口達と一処になつて、百合子に詰め寄つた。「お父様からのそれがお言伝だと云つてゐるのに――蔵の鍵なんてお前さんが持つてゐたつて別段役にもたつわけでもないのに……」
百合子には彼等の内心の業慾がはつきりと解つてゐるので、滝本等の場合がなくてもそんな甘言に乗る筈はなかつた。さんざんに、意のまゝに、業慾者達を嬲ることが出来るのが思はぬ愉快となつた。
「えゝ、――」と百合子は故意に素直らしく首を傾げたりした。
「前には妾が、お蔵の鍵の番だつたけれど、東京へ行つてゐる間は兄さんに渡して置いたのよ。」
未だ百合子が云ひ切らぬうちに堀口等は、
「それあ大変だ! ぢや早速武一君を伴れて来て……」などゝ慌てゝ、目配せをするといふ始末だつた。
「それはもう妾がとうに兄さんに訊ねたわよ。兄さんはお父さんに渡してあると云つてゐたわよ。」
「恰で話が合はんな!」
堀口は、思案が尽きて腕組をするとぐつたりと首垂れてゐた事もあつた。
「お父さんは、ひよつとすると、あんな風な癇癪持ちだから河の中へでも棄てゝしまつて知らん顔をしてゐるのかも知れなくつてよ。」
百合子が自分も不安さうにして斯んな事を云つた時には、堀口等は思はず異口同音に、失敗《しまつ》たなあ! と長大息を洩したものである。それから彼等は寄々相謀つた揚句、合鍵を鋳造することに決したが、何しろ二百年も前から伝はる錠前なので到底今日のものでは役に立たぬことが解つて改めて、入念の家探しに没頭してゐる時だつた。
森の屋敷は鬱蒼たる針葉樹林に取り巻れて、大昔の面影をその儘伝へたピラミツド型の斜面を持つた草葺屋根を二棟に分つた館を中心にして、池を囲らせてゐる。館の奥の間には、道中の大名が宿泊する「鶴の間」と称ぶ簾のかゝつた段上の部屋があるかと思へば、見るも怖ろしい丸太格子に区切られた牢屋があり、その壁には悪人の背上に百叩きの責苦を加へた拷問の鞭が、百年の年月の経過も知らぬ風情に、急用の役にも立たんと云はんばかりに掛け放されてある。また眼を庭園の彼方に放つならば昼も薄暗い崖の辺りからは源を遠く五里の山奥の古沼に発した堂々たる水勢が勢ひ余つて滝と溢れたかの如く、不断にきらびやかな水煙を放つてゐる態を見出すことが出来る。滝は満々たる水を池に湛へて、舟を浮べ、水鳥を遊ばせ、期節になると雁を呼ぶ――池の水は更に庭の中へ招び込まれて、床下を鯉が泳ぐ泉水となつて離れの茶屋から書院の窓下を流れ饗宴の広間の前に来て悠やかな渦を巻いてゐる。放飼ひに慣れた一番《ひとつが》ひの丹頂が悠々と泉水の合間に遊び、橋を渡つて築山の亭《ちん》のほとりで居眠りをしたり、翼を伸して梢に駆り空に呼応の叫びを挙げたりしてゐる。書院の裏手にあたる中二階造りの納戸部屋から蔵前に至る径は凡そ十間あまりの長廊下が泉水の末端を跨いで掛け渡され、現在でも廊下の往来には昔ながらの朱塗の雪洞を翳してゐた。「南方の騎士」達は、登山用のロープを用ひて塀側の木枝から蔵の裏手に降りると、鶴の舎《こや》の蔭に身を潜めて、納戸の窓から合図する百合子の雪洞の揺れ
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