に所理《しより》してしまふ百合子の態度に、滝本は反つて教へられるところが多いやうな気がした。
「妾、二三日此処に泊つて行つても好いでせう。少し、此方で遊んでゆきたいの。」
「…………」
滝本は、即座に返事も出来なかつた。百合子の、曇り気のない顔を、ぼんやり眺めただけだつた。
「守夫さんは、何時頃東京へ行くつもり?」
「この仕事が、多分今月中には出来あがる筈だから……」
机の上に拡げてある翻訳の仕事を、滝本は指さした。
「そしたら――」
と百合子は、言葉を絶《き》らずに急速に云ひ続けるのであつた。「アパートを借りて、私達と一緒に生活しないこと? 妾と、兄さんと、三人で……皆なで、働くようになつたら愉快ぢやないこと!」
「それは好いだらうな。」
父親が没なつた後の家庭上の紛擾と戦ひながら、斯んな処に堅苦しく籠居して、日増に厭世観を高めて行く自分を思ふと、滝本は、自身に怖れを覚えた。
「妾、お父さんが、そんなつまらないことに因縁をつけて、とても不機嫌さうに眉をひそめてゐるのを見て、酷く、がつかりしたわ。怖くも、口惜しくも何ともないの――たゞ、もつと、はつきり云つたら好さゝうなものだと思つて、今度の妾達の新しいお母さん――」
百合子は、云ひかけて、何の蟠りもなく、ふわツ! と笑つた。
「あの母さんの気嫌をとるだけのことで、逆に、いろ/\と妾達に難癖をつけたりなんかするなんて、馬鹿/\し過ぎるわ。そんなこと何うでも好い、兎も角、妾、あのお父さんの顰《しか》め顔だけが滑稽だわ。ナンセンスたら、ないぢやないの!」
思ひ出しても笑はずには居られない! と云つて、百合子は、父親の声色などをつかひながら、腹を抱へて、傍らの寝台に倒れたりした。
「家を出て……そして?」
「まあ、守夫さんたら、何うしたつて云ふのよ。何を、いち/\、妙に、考へ深さうな眼つきばかりしてゐるの――家なんて、もう、とつくに出てゐるわけぢやないの。――学校だつて、もう止めるわ。それとも兄さんの働きで、行かれゝば、続けるし……」
百合子は、二年程前に、やはり東京で女学校を卒業してから、今は語学の専門学校へ通つてゐた。――滝本も二年前に、大学の理科を出てゐた。と同時に、父の死に出遇つた。滝本の母は、自分の経済上の安全を計つて、新しい負債をつくり、負債だけを彼に譲つて、長男である彼を、半狂人的の遊蕩児と吹聴した。――滝本は、何故、思ひ切り好く郷里を棄てることが出来ないのか? 自分ながら判断がつかなかつた。
「ローラのことだつて、阿母にだけは未だに隠し通してある。親父は、二十年隠し通して、更に秘密を僕に譲つたわけだが――」
不図滝本は、そんなことを云つた。百合子達だけには、古くから滝本は「秘密」を明してあつた。
「まあ、これ、ローラさんの写真――妾、見違へたわ――守夫さんのお得意の西部劇にでも出て来る女優かしらと思つたわ。」
百合子は滝本の卓子《テーブル》から置額を取りあげた。
「去年の夏のだつて――」
ローラは、アメリカ人を母に持つ滝本の妹である。そして今、七年振りで日本を訪れようとしてゐる。
滝本が、家うちの話などを初めると、
「妾、そんな深刻めいた話、厭《きら》ひだわ。」
と事もなげに百合子は一蹴した。
「ローラを何ういふ立場に置いたら好いかしら、と思つて――」
「奇智《ウヰツト》が必要なのね。」
と百合子は、勿体らしく首を傾げた滝本を冷笑した。滝本の一見真面目らしい、責任感などは、結局何うすることも出来ない架空の感傷だ――と百合子は思つた。母親の財産を掠奪してゞもローラにだけは、物質上の分配をしたい――滝本のそんな考へが百合子には無駄に思はれた。
「マヽと一緒に来るのか知ら?」
百合子は、わざと白々しく云つた。
「観光団に加つて、ひとりで来るらしい。親父が送つてゐた生活費の最後の分を、そのために貯へて置いたのだつて――」
「兄さんに会ふために、遥々と海を渡つて来るなんて、それだけで、とても楽しいことだらうな――」
皆な同じやうに、新しい生活の出発点に立つてゐるのだから、来てからの上で、
「さうだ、妾がお友達になるわ。」
と百合子は、片づけた。――「守夫さん、相対性原理の説明をして呉れない。」
二
夕暮時になつたので二人は部屋を出て、海の見える縁側に出た。
「小父さん、今日は――何時妾が来たか知つてゐて?」
留守番の年寄が、庭にゐたのを見て百合子は声をかけた。年寄は、驚いて、暫く見なかつた間に、すつかり立派なお嬢さんになつてしまつて、眼《ま》のあたりに見ても、声をかけられるまでは、あなたとは気づかなかつた――などと見惚れた。
「今夜、御馳走してね。手伝ふわ。妾、泊つて行くのよ。」
「御馳走は何にもありませんよ。」
「ぢや、妾が何
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