かつくるわ。小父さんは何がお好き?」
 こゝの家では滝本と年寄の二人暮しであつた。滝本の父親が、母と別居して久しい間住んでゐた海辺の家である。
 百合子が、ぼんやりと暮れかゝつて行く海を眺めてゐる滝本の背後から、肩にぶらさがつて、ぐる/\回つて呉れ――などと面白がつてゐるところに、
「はい、今日は――」
 と云ひながら庭から入つて来た男があつた。そして百合子の様子を、不思議さうにジロ/\眺めながら、
「ちよつと――守夫君」
 と滝本を木蔭の方に招んだ。父親が没なつた後、母親の依頼で様々な家うちのことを整理してゐるといふ、五十歳前後の堀口剛太といふ遠い縁家先の者である。
「此処で関《かま》ひませんよ、私は――」
「では――」
 堀口は幾分てれた調子で、
「こんなものを、此処の家の前に立てることになつたんだが、まさか、君が斯うしてゐる処に立てるのも余りと思ふのだが、何うしたものかね、お母さんは関はないと仰言るんだけど――」
 と云ひながらトンビの袖の中から「売地、売家、興信銀行」と書いてある板切をとり出した。
「東京に行く日が解つてゐれば、それまで保留しても差支へはないんですが――」
「ぢや置いて行きなさいな。何れ私が、立てゝ置きませうよ。」
「それぢや困るんだよ。私の責任上――」
「ぢや、御自由になさいよ、何時出発しようと、余計なお世話だ。」
 二人の険悪な様子を眺めてゐた百合子は、苦しさうにして逃げ出して行つた。
「君は、此処や裏の蜜柑山などを自分のものと思つてゐると大間違ひだよ。」
「――散歩だ。」
 滝本は、相手になることを止めて靴を穿いた。彼は、石段を夢中で駆け降りた。言葉や事柄は別にして滝本は、堀口の姿を通して連想する母親の幻に敵《かな》はなかつた。
「何処へ行くの? 憤つてしまつたの?」
 百合子が追ひかけて来て、滝本の背中を叩いた。
「憤つたわけでもないんだが――」
「ぢや、悲しいの?」
「あんなこと云はれると、無理にも僕は此処に我ん張つてゐてやりたいやうな気がしてくる――そんな、反杭心が自分ながら醜くゝ思はれてならないんだ。」
「止めなさいよ――。妾、さつき、あんた達の睨め合つてゐる物凄い顔が、馬鹿気て見えたので、いきなり、このラツパを二人の後ろで吹いて、吃驚りさせてやらうと思つて、ね、あんたのお部屋から持ち出して来たのよ。妾が、後にそつと忍んで行つたのを、ちつとも気づかなかつたでせう。ところが、いくら夢中になつて吹いても、さつぱり鳴らないぢやないの、力一杯吹いても……」
 百合子は滝本のコルネツトを携へて来て、何うしたら鳴るのか? と質問した。
「吹竹を吹く見たいに幾ら力一杯吹いたつて鳴りはしないよ、斯う唇を絞《しぼ》めて、先に唇を鳴しながら――」
 滝本は、一音階を急速に吹き鳴した。
「あゝ残念だつた。悸《おど》し損つてしまつた。」
 あの時、突然耳もとで、斯んなものを吹かれたら自分も堀口も、思はず飛び上つたであらう、薄暗がりの中で――と滝本も、何となく残念に思つた。
 海辺に向ふ松林の中を、二人は微風に吹れながら歩いてゐた。百合子が、何か唱歌でも吹いて見ないか? と云ふので、滝本は、オーバ・ゼ・ウエイヴ・ワルツなどを、調子高く吹奏した。
「此方を向いてゐても、家の方まで聞えるかしら?」
「風があるから聞えるだらう。」
「堀口さんにも聞へたでせうね。それにしても守夫さんは、自身の仕事の他では、それ[#「それ」に傍点]が一番得意?」
「中学生のうちからだもの。」
「東京へ行つて仕事が見つからなかつたら、ダンス・ホールのバンドに入つたつて生活出来さうね。」
「自信はあるな。」
 百合子を相手にしてゐると滝本は、悩みも不安も綺麗に拭はれて行く爽快さを覚へた。松林を脱けて浜辺へ出ると、未だ、あたりは明るかつた。
「あら/\!」
 と、滝本の口を見て百合子は、笑ひながら顔を顰めた。「妾の口紅が、一杯そこに喰ツついてゐるわよ。――妾が吹いたのをそのまゝ使つたもので!」
「百合さんは紅なんてつけてゐたの? 随分お洒落になつたんだな。」
 滝本は、手の甲で唇を撫でながら何気なく苦笑したが、不図、胸の震えを感じた。

     三

 翌朝滝本は、堀口からの電話で起された。
「森さんの娘さん――いや/\、昨日の君の家のお客様は昨夜お帰りになりましたか?」
「百合子さんなら、居るよ。」
 それが何うしたのか? と云はんばかりに滝本は云ひ返した。
「森さんの方から、其方に百合子さんを探しに行つた人があつたでせう?」
「誰も来ない――だけど、何のために貴方は、そんなことを私に訊くんです?」
「ふ――ん玄関に錠を降し放しにして置いて、居留守をつかつてゐれば世話はありませんね。仲々、何うして、用意周到だよ。」
 堀口は、厭味な嗤ひを附け
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