南風譜
牧野信一
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)卓子《デスク》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)恰度|頤《あご》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)毎日/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
一
卓子《デスク》に頬杖をして滝本が、置額に容れたローラの写真を眺めながら、ぼんやりと物思ひに耽つてゐた時、
「守夫さん、いらつしやるの?」
と、稍激した調子の声が、窓の外から聞えてきた。
(誰だらう?)
滝本は、この時、見境へもなく、返事が出来るほど、心が晴れやかでなかつた。
「矢ツ張り、留守なのか知ら?」
と、窓の外の人は呟いだ。
それで、滝本に――百合子だ……と解つた。恰で、他人と会話をするのと同じ調子の明瞭さで、稍ともすると和やかな独り言を呟くのが、滝本の印象に一番鮮やかな百合子の特徴だつたから――。
「居るんだよ!」
滝本は、慌てゝ窓を展《ひら》いた。
純白の春の半オーバと、同じ色のターバン・キヤツプを無造作に被つた、素直に丈の高い百合子が、
「おゝ、好かつた!」
と片手を挙げて微笑んでゐた。片方の手には、スーツ・ケースを下げてゐた。
「元気の好い様子だね――お休みが余ツ程嬉しいと見えるね。」
滝本は、百合子の手から鞄をとりあげ、
「こゝから、お入りよ。さあ、手を執つてあげよう。」
と、前身を窓から乗り出して、両腕を差し伸した。――「随分、重い鞄ぢやないか、ひとりで来たの?」
「ひとりで大丈夫よ。」
百合子は、窓を指して微笑んだ。窓枠は、百合子の恰度|頤《あご》のあたりまでの高さだつた。
「その、花の植木鉢をのかして頂戴な。」
二三歩後ろに退いてから、百合子は軽く勢ひをつけて、ひらりと窓枠の上に飛び乗つた。
「玄関で、何辺も呼んで見たけれど、一向に返事がないので、もう空家になつてしまつたのか知ら――と思つたわ?」
「うむ……それは、ちつとも気がつかなかつたけれど、相変らず阿母《おふくろ》との間が面白くなくつて――僕は、何時でも玄関には錠を降し放しにして置くんだよ。で、百合さんは、何時帰つて来たの?」
と、百合子は、それには答へないで、
「ね、守夫さん――」
と仰山に眼を視張つて、問ひ返した。――「うちの兄さん来なかつた?」
「二三日前に、一度来たけれど……」
「それきり?」
「あゝ、何うして?」
「ぢや、矢ツ張り、妾と行き違ひに東京へ行つたんだ! いゝえ、そんなら、それで……」
百合子は、独りで点頭きながら、窓枠に腰掛けたまゝ靴を脱ぐと――これは、そつちの方へ隠しておいてやれ――と、卓子《テーブル》の下の方へ投げ込んだ。
「僕には、何とも云はなかつたぜ。」
「さうでせう。まあ、いゝわ。」
百合子は部屋に入ると、滝本が今迄腰掛けてゐた回転椅子に凭つて、
「田舎の春は好いな――妾、昨日から学校が休みになつたので、今朝、帰つて来たのよ、そしたらね――」
と、至極長閑な調子で、含み笑ひをしながら続けるのであつた。滝本は窓枠に乗つて膝を抱へてゐた。毎日/\、窮屈な思ひばかり続けてゐたせゐか、百合子の明るい態度が眼《ま》ぶしいやうであつた。
「只今ツて、お父さんのお部屋へ行つて挨拶すると、お父さんたら、まあ何うでせう、物をも云はずに、ギヨロツと、斯んな眼で――」
百合子は、滑稽らしくクスツと肩をすぼめると両手でつくつた眼鏡の形ちを顔にあてゝ、物々しい苦顔を示した。――「暫く、妾の様子を凝ツと睨んでゐたかと思ふと、いきなり、そんな妙な髪《あたま》の者に家に居られては迷惑だ――と斯うなのよ。えゝ母さんも、ちやんと傍にゐて……」
云ひながら百合子は、キヤツプを、つかみとつて壁に投げつけた。――クロースバヴの髪《かみ》だつた。
「で、斯んな重い鞄を持つて、此処まで来てしまつたの? はじめ妾、冗談かと思つたわ、父さん――でも、断然、そのまゝの顔つきぢやないの。妾、睨めつこをしてゐたわ、そしたら、遂々妾が、笑ひ出しちやつたの――憤つたわ、父さん。――兄さんが、手紙でいろ/\云つて寄したけれど、それほどとは思はなかつた。」
「…………」
滝本は、そんな事件を、みぢんも重苦しく考へないで、平気でゐられる百合子に羨望の念を感じた。
百合子は、断然、父親から離れる事に兄と話が纏つてゐる――と云つた。継母、破産、父の焦躁、家出――と、凡そ暗澹たる周囲にかこまれてゐながら、決してじめ/\とした考へに襲はれることなしに、寧ろ喜劇的
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