んだぞ!」
 座敷の方から武一が荒々しく喚きたてゝゐる声が響いてゐた。彼方此方に灯りが点いて、人々が行き来する影が慌《せは》し気に障子に映り出した。――百合子の丸窓を見ると、駆け込んで来た彼女が、羽織《ジヤムパア》を脱ぎ棄てゝ露はな腕に何か箱のやうなものを抱へて、また走り出て行く姿が映つたりした。

          *

 其後、これが初めての訪れである。あの晩の、余りにも野蛮な酒宴《さかもり》から様々な失策を演じた後なので、一同は、今宵こそは一層心を引き締めて仕事に掛らなければならぬと注意して、R村へ差かゝつた。
「おゝ、白い旗だ。しめたぞ。」
 丘の上に駆け上つて、望遠鏡を眼にあてた竹下が後ろを振り返つて呼ばはると三人は、一勢に腕を挙げて、ブラボーと叫んだ。
 暮れかゝつた盆地の一隅に森家の甍がそびえ立ち、展望窓には、たしかに白い旗が翻つてゐた。そのあたりを二三羽の野鳩が悠やかな円を描いてゐた。――村井は、竹下から眼鏡をとつて、凝つと土蔵のあたりを見極めてゐた。遥か彼方の紫色の山々は、夕映えの僅かな余光を浴びて頂きのあたりを黄金色に輝かせてゐたが山裾一帯は見渡す限り茫漠たる霞みの煙に閉されて、森家の土蔵の白壁だけが黒い林の中に一点、窓のやうに輪郭を遺してゐる。
 今度は滝本が眼鏡を村井から奪つて、眼にあてたが、もう薄闇が一面に棚引いてしまつて盆地一帯は涯しもない海原のやうだつた。――乾盃々々《プロージツト・プロージツト》! 皆なが無茶苦茶になつてしまつてあの晩のことは半ばは有耶無耶で何も思ひ出すことは出来なかつたが、左うしてゐると滝本のレンズに、大写しになつた百合子の不思議な艶かしさを湛へた姿が、夢になつて、ほのぼのと浮びあがつて来た。――ミンミーがよみがへつて、剥製の仲間達の間を歩き廻つてゐるかと思ふと、やがて、ジヤツキも木兎も大鷲も徐ろに蠢めき出して、溜息や、羽ばたきの音が起つた。

     九

 あの頃のローラは一体いくつ位ゐであつたかしら? たしか自分が大学へ入つて間もない頃で、父親の友達であつたアメリカ人のR氏の家庭にローラと共々寄食して、横浜から、東京の学校へ通つてゐたが、今見ると、たとへ妹とは云ふものゝ無闇に齢などを訊くのは差控へずには居られない、もうちやんとしたレデイになつてゐて――滝本は少々勝手の違ふ心地に誘はれてゐた。その上、子供の頃
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