の七郎は漁場につとめて、これも三日置き位にしか戻らなかつたから、この三人暮しである塚本では店は大方休業にして八重も漁場へ手伝ひに行つたり、夜は父親の方へ泊りに行つたりしてゐた。
 八重と父親は幾日振りかで、荒れ果てた工場に戻つて来た。篠谷から、早急に仕事を頼まれたからである。ラツキイの鉄沓《かなぐつ》を打たなければならなかつたのである。七郎に暇のない時は、八重が合槌を打つことに慣れてゐた。七郎に暇がある時は父親が他の仕事に赴いたから、この頃では工場の助手は殆んど八重ひとりの受持であつた。
「森の鍛冶屋ツてえのを覚へた、父さん?」
「何だい。それあ?」
「守夫さん達が好くレコードで演つてゐる。妾あれがとても気に入つて、すつかり覚へてしまつたわ。それで、この間借りて来たのよ、カバン見たいな蓄音機と――。仕事をしながら、あれを掛けたら面白いだらうと思つて――森に住んでゐる貧乏な鍛冶屋が、朝は鳥と一処に目を醒して、トンテンカン、トンテンカン……鳥の鳴き声に合せて大働きを始めるところなのよ。」
「あゝ、あの騒々しい楽隊か、チエツ、馬鹿にしてゐやがら! が、まあ結構だよ。借りて来たのなら掛けて見るが好いさ。こいつは何《どう》しても今日中に仕上げてしまはなければならないんだから。」
 父親は煙管をくわへながら鞴《ふいご》をあをいでゐた。薄暗い土間に焔がゆらぎはじめた。
「ね、父さん、表の障子を閉めて頂戴よ、仕事着に着換へるんだから。」
 八重は毛糸のジヤケツを脱ぎ、そして素肌になつて、壁にかゝつてゐた男用のメリヤスのシヤツをかむり、スカートを短くたくしあげながら脚のかたちに分けて、胸からダブダブのパンツが続いてゐる仕事服を穿き肩先まで備錠を掛けた。そして、バンドも何もついてゐない古い学生帽を両耳をかくす位に深くかむつて(火の粉が飛ぶからである、)父親に代つて鞴の前に安坐《あぐら》をした。
「お前をな、篠谷で小間使に欲しいといふ事伝《ことづて》がもう大分前にあつたんだが、俺は冗談ぢやないと思つて、まあ態好く断つて置いたんだが、あの太一郎の了見が俺には解らないよ。」
 父親が突然そんなことを云つた。
「鍛冶屋の娘が、そんな小間使ひなんて……お行儀ひとつ知りはしない。――この格構を見に来るが好いわ。」
 八重は腕が足りないので、バツク台でボートの練習をしてゐるやうに前後に大きく体を屈伸
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