けてゐた時分であつた。――武一の家の屋根で、百合子がそれを待つてゐる役だつた。だから此方から飛す時に別段用もなくても何かしら通信文を認めて送つたりしてゐたのだ。屋根の上で、それを百合子が読んでゐるところを、太一郎は何時も遠くから眺めて、余外《よけい》な感違ひを起して好奇心を持つたのである。
その時のは何んな内容だつたか滝本も忘れたが、
「うむ――それは……」
太一郎が狼狽の色を露にして、
「手紙とは知らなかつたさ。妙なものがついてゐると思つて見たゞけだよ。そこに棄てゝあるよ。」
草むらの蔭を指差したので、滝本が腕を離して、そつちを探さうとすると、
「あツ、間違へた――僕は、うつかり懐中へしまひ込んでゐた!」
と慌てゝ太一郎が飛びのきながら示した紙片《かみきれ》を見ると、表に滝本が徒らに大きく書いた百合子の宛名があつて、そして、もう封が切つてあつた。滝本が更に責め寄らうとすると、もう太一郎は五六間も先へ逃げてゐて、振り返つて、
「好い気味だ。鳩位のことで泣きツ面をしてゐやがら――。今にもつと物凄い痛手を喰はしてやるから覚へてゐろ!」
などゝ、いわれもない罵りを浴せて、一散に駆け出して行つた。夢中になつて滝本は追ひかけようとすると、ネープを抱いたまゝ草の上に倒れてゐる武一に気づいたので、武一の方へ駆け寄つた。
裏山の櫟林の一隅には、その時武一と滝本が拵へたネープの墓が今も在る筈だ。
「で、守夫は、St. David《ダビツト》 といふことになつてゐるんだよ。」
独りで点頭きながら武一が指命したので滝本は、わけも知らずに左う書き換へた。
(これは後になつて滝本は読んだのであるが、それらの名前は村井の、彼がいろいろな古典の騎士物語や神話中の人物を引用して、それに自分達の心象、経験、憧憬等を仮托しながら創作した新しい浪漫派の歴史小説中のことになぞらへてゐたのであつた。)
メデユーサと称ふ女悪魔の従妹であるボーラスは夫を殺し、新しい夫を迎へるために、先の夫との子供であるパトリツクを邪魔にした上句玄関番の悪竜《ブラツク・ドラゴン》に命じて、彼を殺さうとした。|南方の騎士《シルバー・ナイト》の一員に加はる念願でパトリツクが或日、家を棄てゝ旅路に上つたところを竜《りう》は闇の森蔭で待伏せした。竜《ブラツク》は、その両眼を、パトリツクがその下を眼指して進路を運ばなければ
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