くわよ。だけど直ぐまた戻つて来てしまふわ――帰るとか、帰らないとか、そんなことで母さん達と云ひ争ふのがつまらないから、散歩のつもりで従いて行くだけのことよ。変な云ひ方をするようだけど、自分の自由性《フレキシビリテイ》を自分ではつきり信じてゐるから――平気だわ。」
滝本には百合子の言葉の意味が、はつきりと解り憎くかつたが、
「ぢや今度は、あつちからいきなり東京へ行つてしまふつもりなの?」と訊ねた。
「いゝえ。」
と百合子は「今度は決して誰にも解らないやうに気をつけて、また此処に来るつもりなのよ。」
さう云いつて、いたづらさうに肩をすぼませた。
「森からの便りを待つて、それから二人で東京へ出かけるかね。」
百合子の兄の武一のことを滝本は云つた。
「えゝ、昨日約束した通り――。ぢや行つて来るわよ。そして、夜か、明日の朝早く、変装でもして来るかも知れなくつてよ。そのつもりでね、今度は、しつかりかくまつて下さいよ。……何だか、昔の物語見たいで妾面白くつて仕方がないわ。」
百合子は、戯談《じやうだん》らしく胸を張つて滝本に握手を求めた。
「芝居の――何か昔風の科白を知らない? こんな場合の――」
滝本は百合子の手を執つて、
「知らない。」と不安さうに呟いた。
すると百合子は急に真面目な顔をして、
「いつそのこと、あんな事件を背景にして、芝居を演つてゐるつもりにならない。当分の間、当り前の言葉なんて皆な止めにしてしまつて、中世紀のことにでもしてしまはうぢやないの――さうだ、妾、ほんとうに変装して来るから、守夫さんもそのつもりで沢山言葉を考へておいてね。」
そんなことを云ひ残すと百合子は靴を穿いて、窓から降りた。
「母さん、お待遠様――妾、もう外へ出ましたよ。」
玄関の方で百合子の声がした。――滝本は見送りにも出ず、ドアに鍵を降すと、そのまゝベツドにもぐつてしまつた。
五
その晩も翌朝も百合子の姿は現れなかつた。便りもなかつた。――滝本は翻訳の仕事にとりかゝつた。
町|端《はづ》れの河堤の桜が咲きはぢめて、夜桜の雪洞が燭いたから花見へ行つて見ないかと近所の若者に誘はれたが滝本は、昼も夜も自分の部屋に引き籠つてゐた。庭先に出て見ると、この村と隣りの町との境ひになつてゐる桜の堤《どて》のあたりが、月夜の下に、明るくどよめいてゐるのが遥かに見降せた。
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