堀口が滝本へとも百合子へともつかず左う云つて夫人と一処に其処を立去つた。滝本は堀口は寧ろ曇り気のない愉快な人物であると思ひ直した。
「あれから、ずつと起てしまつたの――散歩にでも行つてゐたの?」
「……直ぐ、あの時百合さんの後を追つて此処に来て見ると、ドアに鍵が降りてゐるようだつたから――」
「いゝえ、妾、鍵なんて降しはしなかつたわよ。」
では、あまり慌てゝ感違ひでもしたのだらうと滝本は思つたので、
「僕はあの時百合さんが傍に居るなんてことは少しも知らずに、堀口さんと思はずあんな喧嘩をしてしまつたけれど、若し、あれが、もう二三言続いたら僕は夢中になつて外へ飛び出して行つたかも知れなかつたよ。百合さんが傍から受話機を引つたくつて呉れたので――幸せだつたんだらうな。」
と、胸のうちに震へを覚へながら呟いだ。
「そんなことになるだらうと思つて妾も、いきなり仲裁に入つたんだけれど、それにしても、やつぱし昨日と同じ原因で、あの張札かなんかのことで、堀口さんと、あんなことになつたの?」
「…………」
堀口が何んな類ひの雑言を放つたか百合子は気づいてゐないと見へる――と思ふと滝本は、決してあの罵り合ひの理由を伝へるわけにはゆかなかつた。「百合さんには、あの人はあの時何んなことを云つたの?」
「何だか好くはわけがわからなかつたけれど、妾が此処に泊つてゐることを誤解してゐる見たいだつたわ。」
「――侮蔑を感じなかつた?」
滝本は、おそろしく眼を視張つて百合子の気色を窺つた。
「何うして……?」
百合子はけげんな顔をして、軽く首を傾げた。――そして稍間をおいてから、掌で嗤ひをおさへながら、
「そんな、侮蔑なんて――そんなもの妾には解らないわ。」と云つた。滝本は、訊ねきれぬものが多過ぎて、途方に暮れた。――寝室に駆け込んで、突ツ伏してゐる百合子の姿が、あのまゝで、何時の間にか薄ら甘い疑問の、そして夢のやうな画になつて印象に残つて来た。白昼の架空に描いた幻のやうに見えたり、古風な物語の中のアカデミー派の挿画の一つのやうに、眼の先の百合子の姿から遊離して、頭の一隅に映つて見へてゐた。
「兎も角一度家へ来るようにツて母さんが今迎へに来たんだけど――それはね、世間態なんですつて、此処に居ることが許されないんですつて――」
「それは当然のことかも知れないね。」
「だから妾、黙つて従いて行
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