停車場へ来てしまつた。そこの待合室にも父の姿は見えなかつた。私は、一汽車やり過して次の汽車に独りで乗つた。
 家に帰ると、父は余程前に独りで戻り、とうに何処かへ出かけてしまつた――と、母が私に告げた。その日のうちに私は、熱海へ戻つてしまつたので、父の顔は見なかつた。裁判は、その後どうなつたのか私は、いまだに知らない。
 ――「随分、その靴の音は凄じかつたぜ。」
 風呂から上つた良子も傍に坐つてゐたので私は、周子に対する不気嫌さを無理に消すために、ふとさう云つた。
「何の? 何の靴の音!」
「うゝん――いや、今日、僕がだね、いよいよ自分の番になつた時にさ……あんまり長く待たされてしまつたんでね、別に坐つてゐたわけぢやないんだが、変にシビレが切れてしまつてさ……タキノといふ人と呼ばれた時には、夢から醒めた人のやうにハツとして思はず板の間を蹴つてしまつたんだね、そして強く脚に力を入れて歩いたんで、傍に居た人に妙な顔をされてしまつたのさ。」
「まア……」
「すつかりぼんやりして――」
「脚がシビレて?」
「脚ぢやなかつた、頭がさ……」
「そんなに待たされたの?」
「名前の呼び方がね、何だか変な
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