顔を見た。私は、ドキツとして、一言問題のことを話すと、
「何あんだ、ハ……」と笑つた。さつきは四五人だつたが、いつの間にか待つてゐる人がごたごたして、其処の狭い控所は煙草の煙りで濛々としてゐた。
 父は、つまり傍聴人として入つて行つたのである。原告も本人が来てゐた。
 中学の化学室のことなどを思ひ出しながら私は、そこに入つて行つた。――傍聴席には、父がたつた一人の傍聴者として腰掛けてゐるだけだつた。
 原告は、非常な能弁家だつた。その弁舌だけを聞いてゐると、S・タキノがたしかに間違つたことをしてゐる人間らしかつた。
 私は、兵隊のやうに直立不動の姿制を執つてゐた。いかにも公平無私な容貌の判官を私は、ひたすら信頼するだけの心で無言に立ち尽した。いつにもそんな姿制を執つたことがないので、その頭から踵までが棒のやうに堅くなつてゐるのに淡く肉体的の快感を感じた。私は、眼ばたきするのも遠慮しながら、此方の云ふべき番になると、たゞ極めて慎ましやかに、
「は?」と、聞き返すやうな返事をしたり「はい。」と、わけもなくきつぱりと返事したりしてゐた。……せめて、この男は少し耳でも遠いのかな? とでも思つて
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