勢凝ツと此方を睨めてゐた。見えないやうに障子を閉めて置いたのだが。
「阿父さん!」と、母は堪りかねて時々声をかけた。草葺屋根の家ばかりがぽつ/\と並び、提灯を下げずに通る人はないやうな場所だつた。私も、顔を赧くして、
「阿父さん!」と呼んだ。座敷には、滅茶滅茶な濁声が充満してゐた。――近所の主人は大抵古風な和式の人々で、隣家の主人などは未だに外出の時には鉄扇を持つて出かけるのを異様としてゐなかつた。一様に私の家程度の裕福でない家ばかりだつた。吾家なども斯んな風に述べると花々しくも見ゆるが、他家と同じく少しばかりの財産を極く少し宛減らしてゐる家なのであつた。外出先きから戻る時に、吾家の門をくゞる十間前から「貧《ヒン》・福《フク》、貧《ヒン》・福《フク》、貧《ヒン》・福《フク》。」といふ言葉を夫々左右の脚に托して口吟み、門をまたぐ時の脚が貧[#「貧」に傍点]であると、また十間逆戻つて福[#「福」に傍点]に出遇ふまでは半日でも同じことを繰り反してゐる人もあつた。どうしても福に出遇はず、他に急ぐ用でもある時には二三歩前で福[#「福」に傍点]と叫ぶ時にその脚で一間も幅飛びをするといふ話であつた。
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