き乱さうとでもするやうな調子で、
「あゝ、退屈で堪らないなア……」と、突然筒抜けた声で叫んだり、こんなに好い天気だといふのに如何して斯う海は毎日荒れ模様なんだらう? などと往来で出遇つた呑気な人達が他に語るべき用もないのを取り繕ふ為に挨拶の代りに天気の話を取り換す言葉を、独りで焦れツたさうに呟いたり、そして、見てゐる者がゐなければそれ程仰山な真似もしないくせに、
「あゝ、斯う頭が重くては到底やりきれない。」と云ひながら、酷く六ヶ敷い顔つきをして首筋のあたりをポンポンと拳固で叩いたりするのであつた。
「あまり運動しないために到々胃病になつてしまつた。前の晩に食べたものが何となく胸のさきへつかへてゐて気持が悪くつて仕様がない……斯うやつて見ると――」
 さういつて私は、水をすくふ時のやうに手の平を凹めて、そこに口を近づけ、徐ろにながく、ハアッと息を吐きかけて、
「あゝ、臭い/\! 何といふ酒臭いことだらう、悪くなつた酒の香ひと同じだ、これアたしかに胃の働きが鈍くなつてゐるんだ、困つたなア!」などと嘆息しながら、尚も熱心に「ハアツ! ハアツ……ウツ、臭い/\、とても。」
 さう云つて悲し気に顔を顰めた。「海で、運動をして来れば、夜になれば死んだやうに眠れるんだ。酒なんて飲む余裕はなくなるだらう、斯んな健康が嵩じては大変だ。」
 その癖私は、夜になると妙に快活な飲酒家になつて楽天家らしいことばかりを喋舌り出すのであつた。
「だが、自分では好くも解らないから誰か一寸と僕の口のにほひを嗅いで見てお呉れな? 一寸と――」
 私は、そんなことも云つて稍暫くあんぐりと口を開けてゐたりした。勿論私は、いくら近親でもそんな要求を享け容れて呉れる者があらうとは思はないのだが、皆なが黙つて顔を見合せてゐると、同じ言葉を幾度も繰り反しながら、終ひには天井を向いて、吐月峯になつて待つた。
 母は、鼻をつまんで横を向いた。
 私が子供の時分には、母は時々私を抱きあげて、
「お前は虫歯がある位ひなんだから、そして寝る頃になつて何か食べたがつたりする癖があるんだから、どうかすると口が臭いことがあるぜ、口が臭い程みつともないことはないんだから余ツ程気をつけなければいけないよ。――今日は、どうだらうね? さア、ハアツと息をして御覧?」と命ずるのであつた。そして母は、仔細に私の息を試験したものだつた。五度に二回位ひの割合で私は、この検査に落第した。不合格の時は、何となく私は他人の前に出るのを恥らふやうな臆病心を養成されて、治るまでは食物を気をつけもし、自ら進んで熱心な嗽ひをすることも煩としなかつた。――私が、八才の時に死んだ祖父は、毎晩のやうに私をとらへて、お爺さんと一処に寝よう? とすゝめた。
「お爺さんの口は、お酒臭いから厭だ。」
 私は、顔を顰めて何時もさう云つては祖父の手を脱れた。酒臭い、臭くないにかゝはらず私は、大人の口は何だか薄気味悪くてならなかつた。祖父も祖母も母も、私が云ひ出せば厭といふことなく諾々として私の息を検査して呉れたが、私はそれに何か子供の特権とでもいふやうな手前勝手な当然さを感じてゐた。
 私が逃げ出すと祖父は、面白がつて、蛇のやうに大きな口をカツと開けた、眼をむき出し鼻筋に彼をつくつて、ゴーゴーと喉を鳴らした、そして、どすぐろい口腔から火のやうに凄じい酒気をハアハアと吐き出しながら私に迫つた。私は、まつたく神経的な悸えを感じて夢中で逃げ出した。或る時祖父は、母に向つて、私のことを、
「彼奴は、ほんとうに俺を嫌つてゐるのぢやないかしら?」と、寂し気に訴へたことがあると云ふ話を、青年になつてから私は何かの序でに母から聞いたことがあつた。
「ぢや、俺は斯うしてしつかりと口を圧えてゐるから、お前、俺にやつて見な。」
 終ひに祖父は、屹度斯う云つて二つの手の平で口を圧えて、私の近づくのを待つた。私は、静かに近寄つて、祖父の鼻柱をめがけて思ひきり強く、ハアツ! と息を吹きかけるのであつた。すると祖父は、重々しく、研究的に首をかしげて、
「うむ、うむ――ちつとも臭くはない。」と点頭いた。疑念を抱いたりすると私が直ぐに気嫌を悪くするからであつた。疑念は、母にのみ許してゐたのだ。祖父のこの甘い検査に合格すると私は、大手を振つて順次に祖母や母の前で同じ真似をした。祖母も容易く点頭いた。母は、このやうにこれが[#「これが」に傍点]稍遊戯的になつてゐる場合でも決して容易くは点頭かなかつた。だから私は、母は一番後回しにするのが常だつた。――兎も角、皆な私にとつて忠実な検査員達であつた。
 母が鼻をつまんだ様子を見て私は、ふとそんな思ひ出に走つた。――現在でも、殊に最近私は、時々口臭の不安を感ずると、そつと周子に頼んで験して貰ふことがあつた。彼女は、決して鼻をつまむ
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