やうな真似をしなかつた。私の幼児の頃の母と同じやうに、たゞ母のやうに積極的ではなかつたが彼女は、私に忠実だつた。私は、いつもその時には彼女に妙な感謝を持つた。だが、私としても、今では、冗談でなくては母の前でそんなことを云へる筈はなかつた。たとへ母が鼻をつまゝないで、私の方を向いたにしろ私はおそらくテレて突然別の話に移してしまつたに相違ないのだ。
 今では、何と云つても周子が自分にとつては一番身近くの者であるのか?――私は、そんなことを呟いで、一寸との間怪し気な感傷に耽つたりすることなどあつた。
「他人《ひと》には話も出来ない、随分馬鹿気たことなんだが――」と、私はこの時だけは変に遠慮深く、稀には顔まで赧らめて彼女に云ふのであつた。――「子供の時分のそんな遊びがすつかり身に沁みてしまつてね、どうしても時々これを験さないと、気持が落着かないんだよ。」
「でも、急に可笑しいわね、この頃になつて突然……今までは?」
「子供の自分には……」
「子供の自分ぢやないわよ。」
「いくら女房だと云つても、そんなことを頼むのは悪いやうな気がして――」
「ほう……」
「いや、冗談ぢやないんだ。だから今までは独りで斯うして……」と私は、例の如く凹めた手の平に息を吐きかけて見せた。
「おゝ、厭だ。子供なら兎に角――」と云つて彼の女は眉をひそめた。
「だからお前に頼むんだよ。」
「ぢや、あたしと一処にならなかつた前はどうだつたの?」
 そんなことから彼女は、変に疑ひ深い眼をあげて不平さうに私を睨めたりした。斯んな話をして居る間だけは飽く迄も私は、従順な依頼者の立場を失はなかつた。そして、彼女も快く承知した。
 私の一つの呼吸は可成り長く保つことが出来た。私は肺量が強かつた。私は、中学の時分にラツパ吹きの選手であつた。――私が胸一杯に空気を吸ひ込んで、そして徐ろにそれを吐き終へるまでには大概彼女は途中で一つ別の息を衝かずには居られなかつた。時にはこれが我慢の競争のかたちになるやうなこともあつたが、私が負けたことは嘗てなかつた。彼女は、いつも試験を始める前に用意のために長く一つの息を吐き出して、それが止絶れる瞬間にウツと微かに合図するのであつた。彼女は、口を結んで胸を拡げ、嗅覚だけに生きた――私は、洞ろに口をあけて、凍えた手を暖める時のやうに沈重な息を吐いた。
 彼女は、私の唯ひとりの公平な試験員になつてゐた。終ると私が先に、
「今日は、どう?」と、臆病な態度で訊ねるのであつた。すると彼女は、疎かな様子を見せぬために一寸と首を傾けて、注意深く、
「今日は、未だ少しお酒のにほひが残つてゐる。」と正直気に答へて、自ら点頭くことがあつた。
「今日は何でもない、綺麗!」
 斯うきつぱり云ひ放つて、私と共に晴れやかな顔になることもあつた。
「ウツ! 今日は、とても堪らない、ウーツ、酷い、酷い! 鼻が曲りさうだ。」と叫んで彼女は、己れの鼻や口のあたりの空気を勢急に払ひのけることがあつた。
 一ト月ばかり前から頻繁に斯んなことを始めてゐたが、彼女が細い観察を披瀝すればする程私は、好気嫌に意を強くする態度を示すので、この頃では彼女はすつかり手心を覚えて、時には、私に二度も同じことを繰返させては、これには夥しく自信のない私の心に好き得心を与へることに努めた。
 同じやうに頭の重い鬱陶しい日ばかりが私に続いてゐた。
 私は顔を洗ひに行くのも面倒で、いつもの通り午近くに寝床を離れると、椽側に出て猫のやうに凝ツとしてゐた……夏の真昼だといふのに、妙にあたりが明るいばかりでさつぱり暑くないな! そんなことを私は呟くと、口笛を吹きながらさつさと歩き出した……。
 祖父と父が無表情で、睦まじさうに並んで井戸掘りの仕事を眺めてゐた。この屋敷続きの畑を潰して、貸家を建てたい! と父は思つてゐた。祖父は、父のさういふ考へを卑んでゐた。私が見あげると、井戸掘りの櫓が石油坑の櫓のやうに高く空にそびえてゐた。これなら大丈夫だ! と、私は思つた時眼が醒めた。私は、醒めたり眠つたりする惰眠ですつかり疲労して、やつと床を離れた。――夢だつたのか! と思ひながら私は、夢のやうに椽側に出て猫のやうに凝ツとしてゐた。
「向うの家の時分には、随分幾度も井戸を掘つたやうな気がするが!」と、私は其処で井戸掘りの光景を眺めてゐた母に話しかけた。
「お爺さんは井戸好きだつたから。」
 母は、椽側に腰かけて見物してゐた。女主人らしい母の様子が寂しく私に感ぜられた。祖父と父が職人を雇ふことが好きで私の古い記憶にはさういふのどけさが多かつたが、職人の仕事を見る者はやつぱり祖父と父でなくては私の感じに慣れなかつた。
 私は、だるく重い胃袋のために動くことをはばまれた気持で、口臭を気にしながら母の傍に並んでゐた。――周子は、その従
前へ 次へ
全20ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング