らね、思ひやりで……」
 母は、尚も同じことを云つて、周子の顔を見たり、天井を眺めて仕様ことなしにあんぐりと口をあけてゐる私を見降したりした。
 私は、いちいち周囲の言葉に拘泥して、いぢけた不自然な憶測を回らせたりなどしながら、我とわが身を卑屈の谷に落して行く、鬱陶しさに自ら酔つてゐるのではないか? などと思つた。
 周子と結婚してから丁度五年経つてゐるが、その間、今に限らず、また母に限らず、何処に住んだ時にも私は、これと同じ言葉を常に彼女からも聞いてゐるのだ。常々のそんな性質を忘れて、何か勿体振つた鬱屈の種を私は探さうとでもしてゐるのか? 学生の時分夏休みで帰つてゐる間(夏休みには限らない、春も冬もその休暇を私は、勝手に前後を延して帰郷してゐるのが常だつたが。)やはり同じ意味のことを、母の口から、そして、その頃ずつと吾家で暮してゐた母方の祖母の口から、聞き飽きる程聞いてゐるのだ。たゞ、当時の母の小言は、今のと反対に攻撃に富んでゐた。
「朝寝坊と、ごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]が治らないうちは貴様はとても駄目だぞ。」
 祖母は、時々疳癪を起して斯う云つた。
「何が駄目なの?」
「――ツ! 加けにだんだん図々しくなつて来る、眼に見えて。」
「いくらか違つては来るだらうさ……」
 普段は他人に対して変な調子の好さを持つてゐるが、昼もなく夜もなく部屋に閉ぢ籠つて呆然としてゐるやうな日が続いてゐる時には私は、他人と言葉を交して見ると余りに自分の言葉が不遜に放たれるのに、自分で一寸と驚くやうなことがあつた。
「機嫌かひ!」と、祖母は云つた。――「理窟もない時にふくれツ面をしてゐる奴は、馬鹿なんだぞ。……不平がある時は、普段よりも気嫌好くしてゐるのが当り前の人間なのだ。」
「何にもないんですよ。」
 さう云つて私は、笑ひ出して急に快活になつたりした。
「もう、直ぐに嫁を貰はなければならない齢が解らないのかね。」
「…………」
 祖母と父とが、私の結婚に就いての話をしてゐるのを蔭ながら私は知つてゐた。祖母達は、私の当時の怠惰が何かそんなことに起因してゐるのではないかしら? といふ風な疑ひを、可成り露骨な言葉で話してゐた。――この祖母は、五年前の春、私達の家で老衰病から高齢で死んだ。
「体にも毒だぜ。」
「そりや、……だから僕だつて、斯うしてゐながらも主に健康に就いての養生を考へてゐるんですよ。」
「年中……」と、周子は云ひかけて、生活の上では私が色々母を欺してゐることを悟つて、年中同じことばかり云つてごろごろしてゐるんですよ、何処にゐる時でも――と云ひたげなところを続けなかつた。
「ほんとうに傍の者の方が……」
「あゝツ! あゝツ!」と、私は時折傍若無人な法螺貝の音に似た溜息をついてゐた。――これから永く、この自分の傍にゐなければならない周子は堪らないことだらう、お母さんなんかこの頃別居してゐるので返つて幸せさ――私は、そんなに馬鹿気て消極的なことを思つたり、今はもう亡い幾人かの吾家の人々を幼時の自分の周囲に置いて、そのうちで唯一人眼の前に残つてゐる母を、幼時の自分にその儘結びつけて回想したりした。少しでも自分と一処に永く暮した人が、一番多くの不幸を自分の為に味つてゐる――そんなことを私は、少しも遠慮勝ちな心になることなしに徒らに洒々と思ひ耽つたりした。
 私は、そつと、自分の思ひ過しか窶れた風情の窺はれる周子の横顔を覗いた。
 そして勝手に私は、あのやうな生来の性質をも忘れて、近頃の――といふ風に限つて、この鬱屈の底に何か眼のあたりの事件的な起因を裏打ちしようとしてゐるのであつた。
 庭の隅では、ギラギラと眼呟しい真昼の陽の中で二人の井戸掘人が満身に力を込めて、黙々と井戸を掘つてゐた。
「あと、幾日位ひかゝるんでせう。」
「ほんとうなら十日程前に仕上る筈だつたが、それでは出が薄いといふので、また後十日程続けるさう――」
「大丈夫なんでせうか。」
「あの人達は、あの通り一生懸命なんで、見る度に何だか気の毒になつてね。」
 母と周子は、そんな話をしてゐた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 また、申し合せたかのやうに意地悪く、暑い好い天気ばかりが続いてゐるのにも係はらず、海は毎日不気味な荒れ模様を保つてゐた。私は、海水浴をすることだけは可成りの楽しみを抱いて帰つて来たのである。私は、毎朝波の静まるのを希つて、時には朝午と二度も、ぼんやりと腕を組んで沖のあたりを眺めてゐる漁夫達の列に加はるのであつたが、何時も舌を打つて戻つて来た。
 私は、たゞ黙つて碌々してゐるのではなく、今度に限らず、始終わけもなくこせこせと落つかぬ素振りを示して、まつたく母などが云ふ通りに傍の者までに迷惑を及ぼしてしまふのであつた。此方から進んで傍の者の心を掻
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