私は、彼女の今迄のあの場合の動作を細かに回想して、その巧みであつた芝居に舌を巻いた。
「御免なさい。」
彼女は、顔をあげてきまり悪さうに笑つた。
「あやまらないでも好いだらう。」と、私は、喉のあたりで唸つた。――起きあがつて、椽先の水溜りを眺めた。こんな陽の中でも、仔細に注意したら微かに息の煙りが見えやしないかな――そんな心持で私は、自分の生温い息をそつと窺つてゐた。
周子は、叱られた子供のやうに両袖で顔を覆ひ、耳まであかくして畳に突ツ伏した。そして、どういふつもりなのか? 笑つてゞもゐるのか? 神経的にブルブルと首を横に振つてゐた。良子の顔は、私は見なかつた。
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
久し振りに保養に来たせいか、いろいろな疲労が一途に現れて当分の間は元気もなかつたが、それも次第に回復して来たらしい、今では努めて若労を避け、ひたすら療養を事としてゐる、折角だから日限を定めず暫く呑気に滞溜してゐたいと思ふ、だから当方には関はず帰京したくなつたら何時でも遠慮なくその儘そちらは其処を引きあげても関はない、私は成るべくならば秋冷を覚ゆる頃まで滞在してゐたい――修善寺温泉へ行つてゐる母からは、そんなやうな意味の通知があつた。
掘り抜き井戸は、もうとうに出来あがつて、荒れはてた庭の隅で静かに水を噴いてゐた。小さな水桶には新しい水が張り詰め、珠のやうに躍り、戯れるやうに砕けてさんさんと噴き滾れてゐた。
私は、夕闇の中に水の影が消え去せるまで其方を眺めながら、勿体振つた様子で盃を傾けてゐた。
良子は、幼い栄一と一処に湯に入つてゐた。栄一の暴れる音や、叫び声がのべつに癇高く響いてゐた。
「――栄一は、もう一里位ひ歩くのは平気ね、それや元気よ。」
「それで疲れたの?」
「そんなこともないんだけれど――家に帰つて来たら何だか急に苛々して来て……」
「…………」
「あゝ、何だかあたし気持がくしや/\して仕方がない、今日は。……皆なで今日は、方々歩いて来て可成り疲れてゐるんだけれども、お湯に入るのも面倒――」
「俺も今日は、珍らしく汽車に乗つて……」
私と周子は、そんな話を取り換してはゐたが少しも話が溶け合はなかつた。
「良ちやんは、明日か明後日あたり帰らうか知らなんて云つてゐる。」
さう云つて周子は、また庭の方へ眼を投げてゐる私の顔を見た。
「――もう飽きたのか知ら?」と、周子は、自分が先に云ひ出したのにも係はらずそんな風に呟いた。そして私の胸には全く響かなかつた冷い笑ひを浮べた。
「さうかしら……」
私は、軽く点頭くことで彼女のそんな気色を綺麗に拭はうとした。まつたく良子のことを口にした周子の素振りが、私に軽い悪感を抱かせた程素ツ気なく見えた。周子が他人に対してはそんな気振りを示さないのを常々私は快く思つてゐた。――だから私は、避けて、事更に伸びやかな調子で、
「あゝ、今日は俺も変に疲れた。」
さう云ひながら、昼間の務めを終へて来た務め人のやうに落着いて、首筋のあたりを撫でてゐた。
この日に私は、止むを得ない用事で厭々ながら、汽車で一時間あまりかゝる市《まち》の或る役場まで行つて来たのである。――私は、まだ庭の方に眼を注ぎながら、何かそれに就いて相手にはつきり聞きとれぬ程の声でブツブツと呟いでゐるのを、暫らく黙つて聞いて(?)ゐた周子は、煩ささうに、
「そんな処に、あんな造作もない用達で行く位ひのことが、何がそんなに面倒なのさ。」と云つた。
「そんなことを思つてゐるんぢやないよ。」と、私も何か煩さゝうに云つた。
「様子は解つたの、まごつきはしなかつたの、初めてゞ?」
「初めてぢやない、二度目なんだよ。」と、私は、それだけは、はつきり云つて、直ぐに愚図/\と口のうちで――「でも、初めても同じやうなものだし、まつたく何ンにも厄介なこともないんだが、いつでも俺はあゝいふ処へ行くと、まるツきり悸々してしまつて、だから俺は銀行や郵便局見たいなところへだつて滅多に入つたことはないんだが――これは、つまり極く平凡なおとなしい人民の……あゝいふ空気を畏れるといふ習慣は祖父からの教育――悪い習慣ではないと思ふんだが、不便なことが……」などと、愚にもつかないことを呟いでゐた。祖父は、町の衛生検査員が来ても心からの畏敬を示す人だつた。頼んで居て貰つた警官が、
「官服を脱いだ時には、そんなにされては困りますよ、加けに私は若いんですからなア。」と云つて、夕涼みに来る時などは頭を掻いても、子供の私が足を投げ出してゐてさへ厳しく坐り直させた。
「口が利けたの?」
それには答へないで私は、上眼を使ひながら云つた。「……ところが変なんだ。名前がだね、SぢやなくつてH・タキノなんだらう、向方ではつまりHとして俺を取扱つてゐるんだらう!」
「
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