……手伝へるものなら――」と云ひながら腹を伸してフーツと息を吐いた。余程臭いに違ひない――といふ気がしてゐるので、母から顔を反向けて吐息したのである。
「では――」と、母は私を呼びかけた。――この時二人の男は腰を真直ぐにして、ハツと口のうちで合図を交した、すると一人は、頭の上に仕掛けてある水車みたいなものゝ中へ逼ひあがつて、彼等も自ら喩えて、その仕事のことを何々とさういふ意味の彼等の術語で称んでゐる如く、「二十日鼠」のやうに脚と手でグルグルとそれを巻き始めた。――それを見あげて母は、私が一寸と気嫌を悪くしてゐるのに気附いて、今度は甘くからかふやうな態度で、
「あれなら……?」と云つた。
あれなら――と私は、鸚鵡返しに点頭いて凝ツと、まぶしい陽を浴びて悠々と廻つてゐる事を、熱心に見あげた。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
……「親爺は何処へ行つたんだ、逃げてしまつたんだな、臆病野郎奴! 姉公は何処へ行つたんだ、やつぱり逃げてしまつたのか、カツ! 阿母か、ふゝん、これが俺の阿母か? 何をそんな処でめそ/\してゐやアがるんだい、さツさツと何処へでも出て行きアがれ、どいつも此奴もみんな何処かへ行つてしまへツ! あゝ、焦れツたい/\! 口を利くのも面倒だア、ハ……だア、面倒臭いや、ギヤツ、ギヤツ、ギヤア――だ!」
……私は、眠り続けたからツぽの頭からすつぽりと蒲団を被つてゐた――私は、そこに二十年近くの間隙のあることを全く忘れて、あの叔父の怖ろしい罵声をはつきりと耳に感じた。……日増に私の鬱屈は強まり、五官は凡て呆たけ、混濁を極めて蒼ざめ、窓の外には真昼の陽がカンカンと当つてゐるのも知らずにどろどろとまどろんでゐた。――(「親父」は私の祖父、「阿母」は父方の祖母、「姉公」とは私の母である。――叔父は私の父の弟である。彼は、私の父が外国から帰るまでの間殆ど私達と一処に暮した。その頃彼は医科大学生だつたが、卒業までには十年も費し、その間二度も癲狂院に入院した。)
皆なひつそりとして叔父の狂態を眺めてゐた。彼の陰鬱に透き通つた声が家中を駆け回つた。
「大丈夫?」「大丈夫!」
母と私は囁き合つた。答への方が私で、私は自信があつたのだ。
「この阿母奴!」
そんな声もした。――(彼の発病後の酷い狂乱に就いての記述は省く。今予は、狂人を描く興味はない。)……が、私が今眼前に思ひ描いた彼の姿、彼の罵声は、発病後の彼に相違ない。さうだ、追憶のつもりが何時の間にか私は妄想に走つてしまつたに相違ない。
「子供の時分傍で暮したので、やつぱり何処か似てゐるところがある。」
私のことを叔父に批べて母は、往々さう云つて笑つた。病人といふのではない、私の平常の怠惰と臆病さを云ふのである。その叔父は、おとなしさは私どころではなかつた、小心さにも爽々しさがあつた、そして他人《ひと》との応対などが円満だつた。たゞ時々、酷く気がふさいで、さうなると誰にも顔を見せず夜昼なく寝室にもぐつてゐた。
私は、何といふわけもなくうつかり叔父の狂態などを思ひ出した自分をセヽラ笑つて、勢ひ好く寝床から飛び起きた。そして、椽側に干してある蒲団を見ると、またそこに転がつてしまつた。
「気持が悪いの? 昨夜はまた飲み過ぎたらしいわね。」と周子が云つた。私は、彼女が口のにほひを験してやらうか? とでも催促してゐるやうな気がして好意を感じながら首を振つて、其処で嗽ひをした。
――病気ではなく、静かに叔父が引き籠つてゐる間はその部屋を訪れる者は、私より他になかつた。私が遠慮なく襖をあけると彼は、他の者でなくつて好かつたといふ風に悸々《おどおど》した眼をあげて、
「早く入つてしめろよ。」といふのが例だつた。
こゝでも私達はよく口臭に就いて争つた。
「他人《ひと》のことばかり云ふねえ、ぢやお前のはどうよ。」と彼は、低く笑つて、だが、決して相手に悪寒を抱かせない調子で云ふのであつた。
私は、母の厳密な検査をうけてゐるので自信があつた。――それが若し、彼がこゝで他の者のやうに生真面目に私を享け容れたならば、あれだけで済んでしまつたのだが、私がハアツと試みると彼は、
「ウツ、臭い/\。」と仰山に顔を顰めるのであつた。それが嘘であることを私は思つてゐるので、そして彼の態度に妙に可笑しく私を引きつけるものがあつて、私は、非常に面白がつて、ゲラ/\と腹を抱へて笑ひながら厭がる彼の顔に噛りついて、ハアハアと吹きかけるのであつた。彼は、救けて呉れ/\、あれを嗅がされては死んで了ふ! などゝ云ひがらもぐり込むのであつた。――他の者との場合で、そんな経験がないので反対に私は、何か異様な武器を持つたお伽噺の悪魔になつた思ひで、愉快に彼を追ひ廻すのであつた。――私達は、顔を合せさへすれば必ずそんな
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