ことやら?」
 そんな噂もされてゐるさうだつた。――私は、母と二人で悄然と寂しい井戸掘りの光景を眺めながら、それとなく聞き伝へた古い町の人々からの噂などを思ひ出してゐた。
「お前も一度清に煽てられたことがあつたけね。」
 さう云つて母は、含み笑ひを湛へた。
「煽てられたわけぢやないが……」と、私は思はず顔を赧くした。私は、その頃清と一処に初めて町の料理屋へ登楼して、終ひには一家に悶着を起させるに至つた程の或る失敗をしたことがあつた。私は、そんなことに触れられたくなかつたので、
「この間阿母さんから貰つた手紙には、たしか井戸清を頼んだと書いてあつたが……」と訊ねた。
「あれぢや困るんだが、古い出入りなんで私もそのつもりだつたんだが、今ぢや商売換へをしてしまつたんだつてさ……さすがに頼み手がなくなつたと見へて――」
「さうかね……」と、私は軽く点頭いた。私は、母の手紙を見て、此方へ帰る時には多少井戸清のことを考へてゐたが、そして彼等に古い頃と同じな退屈晴しを索めてゐたやうな気もあつたのだが、母から今そんなことを聞くと一層それ[#「それ」に傍点]を明らかに感じた。
 私達が腰をかけてゐる直ぐ前では、たつた二人の職人が私の覚えにある井戸清の方法とは全で違ふ――低い足場で、軒先き位ひの高さの処に大きなバネを据えつけて、それに棒を結び、下の方に把手をつけ、二人がそれを握つて、声一つたてずに汗みどろになつて働いてゐた。
「見たゞけでも解るぢやないか、これでなければ力が入るわけはない。井戸清が歌ひながらに一つ突く間には此方のは五度も――」
「ほんとうに……」
「今は方々で井戸を掘つてゐるんだが、大概この人達の仲間ださうで――」
「うむ、さう云へば何処からも声が聞えないやうだ。」
「井戸清は、あの声が浜まで聞えると云つてよく自慢してゐたよ。」
「ほんとうにさうかも知れませんね――ずつと前には、天気の好い……」
 ふと私は軽い上目を使つて、麦笛に似た声で、
「天気の好い、静かな日には……」――春では明る過ぎる、秋では沁々とし過ぎる、夏・冬のどちらも知らない、追憶ではそれらのけじめを知らないたゞ麗かな日である、耳を澄ますと屹度どこからか伸びやかな何かの仕事の歌が聞えて来るやうな日である――「屹度何処かから井戸掘りの声が聞えて来ましたね。」と云つた。
「さうかしら。」と、母は興味なげで「井戸清だけだつたのかしら、前には? 井戸掘りと云へば……」
 さう云つて私の幻を醒まさせた。個有名詞を使はれると、ふとした私の夢は見事に破れて、私は愚かな常識家にならなければならなかつた。
「そんなことは、どうだか知らないが兎も角先には、そんな日には何時でも屹度何処かしらから、微かにあの声が聞へましたよ、とても、あの、よういこらア! の声は、高くて……」と、私は少しも此方の気分に母が誘引されないのをあきらめて、太く仰山な声で、
「余韻嫋々――」などと云つて笑つた。
「方々の家で、さぞ彼奴には酷い目に遇つたことだらう。」と、母は云ひ棄てゝ、今度はほんとに好い職人に出遇つたといふことを切りに悦んでゐた。――私も、この二人の職人の熱心さには、打たれて圧迫を感じてゐたのだが、あまり眼の前に居るので讚め言を発するのは控えてゐた。
「この人達はお酒さへ飲まないんだよ。」
 ――私だつて、どちらかと問はれゝばこの種の職人の方が好もしい、だが私は、何となくテレて笑ひながら、
「僕は……清だと聞いたんで、さぞまた家中が大騒ぎだらう……清と一処に酒を飲む……」
「馬鹿/\しい。」
「いや、吻ツとしたんですよ。」と云つて私は、抱へてゐた膝に頤を戴せた。
「私も今度は吻ツとしてゐる。」
「――清は一体何処に越したの、今では?」
「八百屋になつてゐる――。……お前、そんなに運動が足りないで気分が悪いのなら、ちつとあれ[#「あれ」に傍点]を――。」
 さう云つて母は、黙々と力の塊になつて働いてゐる男を、さつきから眺めてゐる私に、更に見せた。「ちつと、あれでも手伝つたら、どうかね。」
「…………」
「あれぢや、少し酷すぎるかね。」
 私が子供の頃には、井戸屋の手伝ひでもしろ! といふ言葉は、屡々阿呆の異名として使はれたものだつたが、今のでは、さういふ馬鹿/\しい感じはなかつた。だから母がさう云つたのも全くの冗談や軽蔑からではなかつた。
「井戸清のなら手伝へるかも知れませんがね――」と、私も冗談でなく答へた。すると母は、何か私が皮肉でも云つたのかしら? と誤解したらしく、
「何だかお前のその頭は、清のに好く似てゐるよ。」
 さう云つて、前の日に近所の理髪店で刈り込んだばかりの私の頭を指差して顔を顰めて嘲笑した。私は、稍々気色ばんで、
「冗談ぢやないんですよ。……それ程僕は、気分が悪いんだよ、まつたく
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