彼等の勇ましい声を聞いて程好く妄想から救はれた。――私が子供の時彼等から歌で話しかけられたやうに、女中が傍を通ると私が見てゐるのも知らないで彼等は切りに掛声でからかつてゐた。九月の末になつて私が厭々ながら東京に帰る頃になつても未だ彼等の仕事は終つてゐなかつた。――清にからかはれると女は、赧い顔をして逃げ出したが、もう来さうなものだがなア! といふやうな掛声をすると、彼女はまた素知らぬ顔をして其処を通つた。彼女は、後にこの倅の清と結婚した。――それを母は思ひ出して、忘れてゐた私に告げ、
「あの時は何でも、八百長で仕事を永引かせたんだつてさ……碌な奴ぢやないんだよ。」と、新しいことでも憤慨するやうに云つた。――何でも私は、その時東京へ帰つたが一層憂鬱病が募つて、吾家の部屋で朗らかな彼等の音頭を聞いてゐる方が未だしも救かる気がして、間もなく戻つてゐた。
 掘り上ると彼等は、花々しい縁儀の酒盛りを行つた。父は、この宴に芸妓を招いで彼等と共に踊りをおどつた。私は、茶の間から母と共に父の馬鹿/\しさを嗤つてゐた。私が障子の硝子からそつと庭の方を振り返つて見ると、近所の人達の白い顔が薄暗がりの中で大勢凝ツと此方を睨めてゐた。見えないやうに障子を閉めて置いたのだが。
「阿父さん!」と、母は堪りかねて時々声をかけた。草葺屋根の家ばかりがぽつ/\と並び、提灯を下げずに通る人はないやうな場所だつた。私も、顔を赧くして、
「阿父さん!」と呼んだ。座敷には、滅茶滅茶な濁声が充満してゐた。――近所の主人は大抵古風な和式の人々で、隣家の主人などは未だに外出の時には鉄扇を持つて出かけるのを異様としてゐなかつた。一様に私の家程度の裕福でない家ばかりだつた。吾家なども斯んな風に述べると花々しくも見ゆるが、他家と同じく少しばかりの財産を極く少し宛減らしてゐる家なのであつた。外出先きから戻る時に、吾家の門をくゞる十間前から「貧《ヒン》・福《フク》、貧《ヒン》・福《フク》、貧《ヒン》・福《フク》。」といふ言葉を夫々左右の脚に托して口吟み、門をまたぐ時の脚が貧[#「貧」に傍点]であると、また十間逆戻つて福[#「福」に傍点]に出遇ふまでは半日でも同じことを繰り反してゐる人もあつた。どうしても福に出遇はず、他に急ぐ用でもある時には二三歩前で福[#「福」に傍点]と叫ぶ時にその脚で一間も幅飛びをするといふ話であつた。当人は、思想の福[#「福」に傍点]を祈つてゐるのだと云つてゐたが、私の母以外の人々はそれを詭弁と認めて笑つてゐた。この老人は祖父の時には時々碁打ちに来たが、父とは往来で遇つても挨拶も交さなかつた。父が外国から帰つたといふことを聞き、「ぢや伴天連だらう」と云つて顔を反向けたさうである。職人を雇ふと、帰す時に「疑るわけぢやないが、紛失物でもあるとお互ひに迷惑だから。」と云つて、庭先きへ呼び寄せて帯をとかせるのが習ひだつたさうである。――この人が凝ツと、垣の間から此方を見てゐるのにも私は気附いた。「先生が――」と、私は母に合図した。母は私が生れた頃から、ずつと一ト月に一度宛この人の処に修身講話を聞きに行つてゐた。――母は、狼狽して椽側をかけ降りた。――先生は嘆いてお帰りになられた、と母は、暗然として私に告げた。
「そウうろツたア/\、総おどりだア、総おどり――」
 座敷では今や大乱痴気の態たらくで、一同の者が男女入り乱れて近在農村地方の何かの踊りを演じてゐた。清の倅は双肌を抜いで、先頭で大見得を切つてゐた。父は、その踊りは知らないと見へて独りだけの大胡坐で、
「やア、面白れエ/\!」と叫んで切りに手を打つてゐた。
「気狂ひの寄り合ひだ。」
「まつたく……」と、私は母と一処に呟いだ。
 終ひに彼等一同は遊廓へ繰り込んだ。母は、幼い二郎を伴れて里へ帰つてしまつた。二日経つても父が帰らないので私が、清の家へ行つて見ると父は其処で酒を飲んでゐた。二三日経つて、半紙位ひの大きさの土地の新聞に「愚かなる○○○○」といふ見出しで、名前だけは○○にしてあるが誰が見ても父と解るやうな罵倒が載つてゐた。平常の豪語にも似合はず父は、それが源因でもなからうが当分の間一室に閉ぢ籠つて蒲団を被つてゐた。父にも週期的にさういふ性癖があつた。祖父のことは知らないが父の弟のことなどを考へて見ても、私のそれ[#「それ」に傍点]は父系の遺伝であるらしい。――間もなく父は、近隣の旧交会から除名された。だがその頃にはもう元気を回復してゐて、日本人はもう相手にしないと云つて南洋の殖民事業を計画した。これではまた酷い失敗をした。……近隣の旧人は今はとうに離散してゐるが、どうして私の父だけは失敗の事業ばかりをしながら大した惨めにも陥らずに一代を送り得たか! いや、そのお蔭で、
「あそこの家も、今では一体何処に住んでゐる
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