とらへようとしたが、私の身の交し方が速かつた。)彼の胸に夢中で飛びかゝつた。
「お前えは居たのか?」
「何云つてゐるんだい、馬鹿野郎!」と、私はあらん限りの声で叫び、彼の胸を擲つた。――すると彼は、鬼の真似をして私に飛びかゝつた。私は、その横面に手をあげた瞬間、ふと思つて――(何アに、いけなければ死にもの狂ひの喧嘩だ!)たゞ、身を交すハズミに一寸と間隙を感ずると、思はず無意識に、
「ハツ!」と彼の顔に息を吐きかけた。と、彼は、
「ワツ、やられたぞ――しまつたなア!」
斯う、いつもの遊びの時と同じ調子のうめきを挙げ、規定の声を放つて、どたりと其処に昏倒した。
私が、寧ろアツ気にとられた。祖母も母も、私達のこの霹靂の如き奇怪な早業に打たれて魂の抜けた姿で、部屋の真ン中にふんぞり返つて声一つ立てずに唇を噛んでゐる狂人の姿を、震えながら眺めてゐた。――そして私は、自ら得体の知れぬ得意さで、にやりとすると同時に、極度の昂奮から激しく五体が震え出し、忽ち貧血症を起した。
その後幾日か経つて彼は、東京の癲狂院へ送られたのであるが家人は、長い間私の前では、彼は学校に帰つたのだといふ風に取り繕ふて置かなければならなかつた。
[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]
母が留守になつてから、周子や良子は明らかな寛ろぎを見せてゐた。――彼女等のそれに私は、軽い厭はしさを覚えながらも、己れも動作に現さぬ程度では、いくらか彼女等のそれに似たらしい感情を抱いてゐるのに気づいて、秘かに憮然とした。幼年時代を母と共に長く父の留守を守り、その儘母と共に成長して来てゐる私は、そして常に幼年時代の愚かしく感傷的な追憶家である私は、今頃になつて一寸とでも母を忘れる心などに出遇ふと盗心を起した程に酷く慌てゝ、吹き消さずには居られなかつた。
「いくらか、避暑にでも来てゐるやうな気分になつたかね。」と、私は何気なさを装ふて彼女等に訊ねた。
「えゝ。」と、良子は無邪気さうに点頭いて薄ら笑ひを浮べてゐた。周子も、それに殆ど同意するやうに、
「あたしは未だ一辺も避暑とか旅行とかをしたことなんてないから、そんな気分なんて知らないわ。」と云ひながら、皮肉らしく、地震後に仮のつもりで寄せ集めの古木で建て直したらしい、そしておそらく永久にその儘に終るであらう、小屋のやうにがさつな家の中を見廻してゐた。
「さう云へば俺
前へ
次へ
全39ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング