彼方で受けた無根水とをもつて練り固めるので御坐います。――ところが余の物は大概集りましたが、老兄も知らるゝ通り私達がこの国に入つて以来、私達は未だ一度も慈雨の恵みを享けてゐないぢやありませんか! で、無根水を得る術がありません。」
「…………」
「いや、だがもう御心配は御無用です。老兄の回生は全くわたくしの掌中に帰しました。――私は、只今、鵬に身を化し、十万里の雲程を駆け回り、漸く一滴の無根水を得て立ち帰つたところで御坐います。これで一粒の烏金丸と共に、老兄の命は再び吾々の手に帰しました。いざ、一休みいたして――」
「…………」
「烏金丸の調合に取り掛るといたしませう。」
 そんなことを云ひながら私は、のろのろと叔父の薬戸棚の前に進んで、二三の薬品を秤にかけたり、乳鉢をかき回したりして、仰々しく一粒の丸薬を拵え(手真似)あげた。私は、これを患者に服ませ、
「チクリ。」と云つて、頬を突いた。
 同時に彼は、ぴかりと眼を視開いて、巧みにあたりをきよろ/\と見回した。
「あゝ、酷い目に遇つた。」
「うまく、やられたらう。」
「俺、ほんとうに少し眠つてしまつたよ。」
「さうかね。」と、私は得意さうに悦んだ。
「この次から、あまり長い間|放《ほう》つておくことは無し[#「無し」に傍点]にしようじやないか?」と彼は、真顔で卑怯な相談を持ちかけた。
「阿母さんは、出かけたの?」
「今朝早く――」と、周子は点頭いた。
 私達が何処にも出掛けないといふので母は、毎年夏には一度は二郎と一処に旅行をするのが慣ひだつたが父が死んで以来ずつと遠慮してゐたので、前の日に私が留守を引きうけることを約束し、だから出発したのに、私は何となく意外な眼を輝かせた。母は、修善寺の温泉へ行くと云つてゐた。
「留守となると、また退屈……」
「何を云つてゐるのさ!」
「馬鹿/\しい。」
 以前には私は、何時も進んで留守を引きうけたのであるが、今では如何程神妙に待たうとも何処からも家賃一つ入つて来ないのか――私は、「馬鹿/\しさ」を従来の習慣通りに斯様なありふれた不良性で裏づけたが、何か斯る野卑な不満以外に、晴れざる不味さが喉にからむ思ひがした。
 ……どうして俺は、またあんな昔の叔父の発狂後の罵声などを白々しく思ひ出したりしたのだらう、あの遊びのことならば近頃自分が斯んな状態に居て、主に口臭などに囚はれてゐるの
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