戸清だけだつたのかしら、前には? 井戸掘りと云へば……」
さう云つて私の幻を醒まさせた。個有名詞を使はれると、ふとした私の夢は見事に破れて、私は愚かな常識家にならなければならなかつた。
「そんなことは、どうだか知らないが兎も角先には、そんな日には何時でも屹度何処かしらから、微かにあの声が聞へましたよ、とても、あの、よういこらア! の声は、高くて……」と、私は少しも此方の気分に母が誘引されないのをあきらめて、太く仰山な声で、
「余韻嫋々――」などと云つて笑つた。
「方々の家で、さぞ彼奴には酷い目に遇つたことだらう。」と、母は云ひ棄てゝ、今度はほんとに好い職人に出遇つたといふことを切りに悦んでゐた。――私も、この二人の職人の熱心さには、打たれて圧迫を感じてゐたのだが、あまり眼の前に居るので讚め言を発するのは控えてゐた。
「この人達はお酒さへ飲まないんだよ。」
――私だつて、どちらかと問はれゝばこの種の職人の方が好もしい、だが私は、何となくテレて笑ひながら、
「僕は……清だと聞いたんで、さぞまた家中が大騒ぎだらう……清と一処に酒を飲む……」
「馬鹿/\しい。」
「いや、吻ツとしたんですよ。」と云つて私は、抱へてゐた膝に頤を戴せた。
「私も今度は吻ツとしてゐる。」
「――清は一体何処に越したの、今では?」
「八百屋になつてゐる――。……お前、そんなに運動が足りないで気分が悪いのなら、ちつとあれ[#「あれ」に傍点]を――。」
さう云つて母は、黙々と力の塊になつて働いてゐる男を、さつきから眺めてゐる私に、更に見せた。「ちつと、あれでも手伝つたら、どうかね。」
「…………」
「あれぢや、少し酷すぎるかね。」
私が子供の頃には、井戸屋の手伝ひでもしろ! といふ言葉は、屡々阿呆の異名として使はれたものだつたが、今のでは、さういふ馬鹿/\しい感じはなかつた。だから母がさう云つたのも全くの冗談や軽蔑からではなかつた。
「井戸清のなら手伝へるかも知れませんがね――」と、私も冗談でなく答へた。すると母は、何か私が皮肉でも云つたのかしら? と誤解したらしく、
「何だかお前のその頭は、清のに好く似てゐるよ。」
さう云つて、前の日に近所の理髪店で刈り込んだばかりの私の頭を指差して顔を顰めて嘲笑した。私は、稍々気色ばんで、
「冗談ぢやないんですよ。……それ程僕は、気分が悪いんだよ、まつたく
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