ばせ、お起き遊ばせ――だつて。辛いね」
彌生は聲をあげて、笑つた。留守居の老婆が耳が遠いのであつた。――「遊ばせ――と聞かされちや、さすがに照れちやふよ。」
「お孃樣は大變立派な外套をお召しになつて、見違えましたわ、此度御注文なすつたんですつてね、――なんて云つてゐたぞ。そんな出鱈目云つたのかい?」
「はつはつは……何うだか知らねえよ。女房が吹いたんだらう……ともかく今日は、素晴しい日光浴日和ぢやないの。」
「それや左うに違ひない――」
隱岐は眼を霞めて、陽炎の立つてゐるかのやうな明るい砂原を見渡した。微かな風もなかつたが、海の上から溢れて來るやうな陽《ひかり》の肌ざわりは、それこそ深々とした毛皮か、鳥の羽毛にくるまれてゐるやうな物柔らかさだつた。
「ねえ、ずつと向ふの松林の方まで行つて見ない、誰も人の居さうもない――」
「日光浴、するのか、ほんとに?」
「何時だつてしてゐるわよ、今日に限つたことぢやないわ。川のふちまで行くと恰で砂漠見たいなところがあるわよ。決して、人になんか見つかりつこないわ。停車場からサンドヰツチでも買つて、お午過ぎまで遊んて[#「遊んて」はママ]來ませうよ。」
と、隱岐は左程氣がすゝみもしなかつたが、否應なく誘ひ出された。
「どうせ駄目ときまつてゐるのに、そんな顏をして机にかぢりついてゐても仕方がないぢやないの。氣分ばかり惡がつてゐたつて、それは運動不足だからぢやないの。歩いて來れば、屹度清々としてしまふわよ。」
街にまはつて、出來あがつてゐる寫眞の燒つけなどをとつてから、もう一度家に引き返すと、彌生は靴下を脱いで、素足に重たげな庭下駄を穿いた。彼女は未だ、執拗にも例の外套を着て、兩腕で胸のあたりを堅く掻き合せるやうにしながら、酷く無器用な脚どりで砂を踏んでゐた。隱岐は、模擬革のボストンバツクをぶらさげて、彼女と肩を竝べた。
「さつき、玄さんに遇つたら――どちらへ? なんて云つたわね。東京ですか? だつてさ。」
「ちよつと左う見えたんだらう。」
「なにしろ、鞄までぶらさげて、氣取つてゐるんだからね……」
彼女は、何が可笑しいのか、ひとりでクスクスと笑ひ出した。「寫眞屋も、そんなことを訊いてゐるのさ。あのまゝ汽車に乘つたら何うだらう。」
「え?」
「人に會つたり、喫茶店に寄つたり、それから映畫でも見たり……」
彼女はいつまでも、ひとりで呟いで奇妙な笑ひを浮べてゐた。
「その外套、お前には餘つ程大きいね。エスキモー見たいだぞ。」
ひとりごとなど呟いで笑つてゐる彌生を、隱岐は難じてやつた。
「左うよ。だから、何うせ他所行きになんかなりつこないさ。――その代り、凡そ窮屈ぢやなくつてよ、中で泳いでゐる見たいよ。」
「さすがに、それぢや、暑過ぎるだらう。」
「ほんの少し……」
と彌生は、薄ら笑ひのまゝ、何やら思ひ切つたやうに輕く默頭いて、立ちどまつた。そして、ぐるりとあたりを見まはした。
球蹴りをしてゐる若者達の姿が、遙かの後ろに、鳥のやうに小さく見えたゞけだつた。折々遊びに來て、彌生と文學の話などを取り交す青年もゐた。――見つかると困るから、遠くを廻らう――といふので、はじめから二人は彼等を避けて、街をまはつてずつと西寄りの濱邊に降りたのである。
彌生は稍しばらく笑ひを堪へるかのやうに、襟の中に顎を埋めながら、凝つと隱岐の顏を見据えてゐたが、やがて、
「でも、大したことはないわよ。――だつて、斯うなんだもの――」
と云ふがいなや、非常な速やかさで、ぱつと、一瞬間、それを脱ぐ眞似をした。隱岐は、思はず、アツ! と云つた。たしか一糸も纏つてはゐなかつた。
「さつきから、そのまんまだつたのかえ、驚いたな。」
「えゝ――。靴下だけで。」
彌生は何故か急に濟してゐた。「だから、東京へ行くのかなどゝ聞かれると、變な氣がしちやつたのよ。でも、あたし、よくよく困つたことに慣れちやつたな。」
と、そこはかとなく憂愁氣な顏色に變つてゐた。
「心の半分まではらはらしながら、このまんま、何處までゞも行つて見たいやうな氣がするのよ。」
「くだらんぞ。」
と隱岐は唸つたが、あとから/\矢つぎばやに胸先を襲つて來る稻妻のやうなものに射られて震えが込みあげて來るのであつた。
「あら! あんなところから、人が來るわよ。氣をつけてよ。」
氣をつけることもないのに、彌生は耳の根まであかくして、彼の腕をとつた。極く稀に、散歩の人々に出遇つた。
「駄目だわね。――引つ返さうかしら?」
彌生は、はぢめのうちの元氣はすつかりなくなつて、弱音を吐き出した。
「ともかく川尻のちかくまで行つて見ようよ。――それとも、いつそ、思ひきつて、そこからバスに乘つて、小八幡《こやはた》か酒匂《さかわ》の方まで行つて見ようか、松濤園の下あたりま
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