けて、あゝこれでさつぱりしたと呟きながら帰つて行くのが、道楽かと思つたら研究なんですつて! 今も、うつかりしてゐたら、いきなりそれを背中の中へ投げ込まれてしまつたのよ。擽つたいと云つたらありはしない、とても凝つとしてゐられないわ、ね、一処に踊つて呉れない。」
「南京豆の一粒が、この床に落ちる時の微かな音が聞えるでせうか?」
と私は教授に質問した。すると彼は、娘の一瞬の動作をも見逃すまいと眼《まなこ》をそばだてゝゐるところだつたので、極めて迷惑さうに、軽く点頭いたゞけであつた。
「先生――」
と私は、ワグネルもどきの声色で更に言葉を続けた。「私は先生のやうな大学者と言葉を交すことが出来れば、夜を徹するも敢て辞さぬ者です。明日は復活祭で御座いますから、何卒あと二三の質問を御許し願ひたいものです。」
「…………」
「空に星あり、地に馬あり、卓上に一個の薄暗きランプあり、一杯のほろ苦き酒あり、然して一冊の錬金術教科書あり――さて、悲しめる詩人は孰れを選んで天の……」
「おゝ、ヘレンの裾から南京豆が一つ滾れ落ちたぞ、わしは何を措いてもあれ[#「あれ」に傍点]を拾ひあげなければならない。わしは、あれらの種子を拾ひ集めて、温室のフレイムの中に播くのである。わしはセラピス教の信者である、火烙りされた諸々の種子も一度び神聖なる処女の肉体に温めらるゝならば、再び芽を生じ、蔓を伸し、蔓は終に天上に達して神と人間との間をつなぐ実証唯理の綱となるであらう――の教義に基づく万有神正論の信者である。見失はぬ間に拾ふて来なければならない、腕を離して呉れ給へ。」
「有り難う、先生。私も今、この錬金術書はストーヴに投げ込みランプは吹き消し、門戸で私の出立を待つてゐる馬は気儘な野に追放してから共々に先生の仕事を手伝ひませう、そして私は私のファウスタスに貴重な種子を服用させてやらなければならない。」
「馬鹿なことを云ふな。あれを貴様に拾はれて堪るものか、この悪党奴。」
「では、この審きは私達のヘレンに頼むことにしようぢやありませんか。」
「悪魔の弟子野郎――神正論者の修業を邪魔だてすると、剣を抜くぞ。」
「恩師ファウスタスの命のためとあれば、寧ろそれは此方の願ふところだ。私は、斯る秘薬を索める機会に出遇ふために、このやうな悩ましい面貌を永年保ち続けて来たのだ。」
「あゝ、わしは飛んでもない盗人野郎に、懐ろの中へ飛び込まれてしまつた。何故俺は口を慎しまなかつたのだらう。」
私達が、鼻と鼻とを衝き突けて争ふてゐると、
「何て、まあ煩い漁色漢達だらう。あゝ、面倒だ、灯《あか》りを消してやれ!」
とヘレンが叫んだかと思ふと、忽ち部屋は真暗闇になつた。
二人は、思はず、アツと叫んで、床に四ツん這ひになつた。そして口々に、俺はダイアナの犬だとか、俺はファウスタスの馬だとかと呟きながら秘薬の在り所を訊ねなければならなかつた。
「暗いうちに、ひとりで野蛮な踊りを踊り抜いて、背中の擽つたい南京豆を振り落してしまはなければならない。」
と呟きながらヘレンは軽妙な靴音をたてゝ彼方此方と飛びまはり始めた。
「ヘレンは、一体何んな踊りをおどつてゐるのだらう?……この靴音で想像するやうな踊りを、わしは未だ嘗て明るみのうちで見たこともないが……」
真夜中のやうな静寂の中で、教授が斯う唸つた後には、全くその靴音から娘の動作や表情を想像するのは困難である。恰も小声で何事か囁くかのやうな微妙な甘美さに満ちた靴の音が響いた。
「あゝ、俺は、この儘で満足だ……」
私は、一度ソフアの上に這ひあがつたが再びドタリとだらしない音を立てゝ床の上に転げ落ちると、絞殺された悪魔のやうに下向にのめつてしまつた。(神が、悪魔の屍を上向きに置かざらしめぬのは、神が、吾らをしてメフィストの奴僕たらざらしめんが為の誡めなり――と神学者ヨハンガストが、バジル神学校でファウスタスに会見後、悪魔に絞殺された彼の屍の位置を指して、その談話録の中に述べてゐる。)
絶望の盃であをつた酒の酔が、にわかに目眩ましい渦巻になつて私の五体を得体の知れぬ恍惚の空に導いた。私は、ヴェニスの空中で三態の悪魔の姿体の見得を切つたファウスタスの夢を追つた。……さあ、そこで、真つ倒まに、水の中へなり、沼の中へなり、転落するのを待つばかりだつた。
私は、静かに瞑目した。生温い風を切つて円筒のやうなものゝ中を一散に転落して行く気合は、はつきりと解るのであるが、一向奈落の底に達しないではないか――などと遠くに娘の靴音を聞きながら考へてゐると、不図眼蓋の裏がぼんやりと明るくなつて来た。
シエードの周囲に氷柱《つらら》のやうなヒラヒラがついてゐる古めかしい台ランプが点つてゐるのだ。私は永い年月の間田舎のうらぶれた村の書斎で、このランプを点し、この
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