彼等は如何なる類ひの事柄であらうとも自分の命ずるところであるならば決して逆らはぬ自分の最も忠実なる下僕である。貴兄の眼前で働かせて見せようか――などと吹聴したが、これも私としては神の掟に逆ふ事柄である故辞退した。が然し私の親友である天文学者のギオラヒラスは、彼がこの二頭の従者に命じて炊事の用をなさしめつゝあるさまを見たと私に伝へた。)
(翌年の冬彼は悪魔に絞殺された。)
次の一文はスポンハイムの寺院長ヨハネス・トリテミアスが一五〇七年度中の書簡で、友なる某検査官に送つた通信文中の一節である。
(ジオルジアス・サベリカスなる人物は戸籍なき漂泊者にて、自ら魔術の王と称して、神聖なる教理に戻る奇怪不埒なる説を流布し回る惨めな悪漢であります。この者、去月ガイレンヒーゼン市に現れ、同市の公会堂に於て、「キリストの奇蹟驚くに足らず」及び「哲人プラトン並びにアリストートルの著書を尽く焼き棄てるも、余の脳裏より容易に之を供するを得べし」なる二題目のもとに、十時間に亘る講演を行ひたる由を同市の僧侶より聞きましたので、早速会見を申し込みましたるところ、小生の到着を待たずしていちはやく遁走しました。その節彼が道々にポケットよりとり落したる名刺を拾うた者の言に依りますと、彼は八通りの偽名を有し、その中にはファウスタスなる文字も見うけられたさうでございますから、勿論お訊ねの不埒なる科学者と存ぜられます。そのおつもりにて追跡なさるゝやう至急お取り計ひなさるゝが適当と存ぜられます。)
(僕は当時彼と友達であつた。)
これはアンスバッハ市に当時在住した物理学者マリンスの、彼に関する述懐録の一部分である。
(彼はクンドリング生れで、クリコウの大学に在る頃より魔術に通じ、漂泊的学者となつた。彼は、何時も名状すべからざる憂鬱な相貌で、様々な不思議に就いて高言するのが癖であつたが、数年前ベニスに現れた時に、空中飛行の実験を示すと吹聴して、或る烈風の凄まじい日に高塔の頂きから空中に舞ひあがり――その時彼の五体は突風に巻き込まれて空高く飛び、大胆にも悠々と落着き払つて三態の悪魔の姿体を示したので地上より遥かに見あげる者の眼には、正しく奇蹟の験証なりと見られたが、忽ち運河の中に墜落して人事不省に陥つた。その後数年経て、ウンテンベルグの旅館に、更に驚くべき憂鬱な相貌で立現れたので、主人がその故を問ふと彼は、たゞ一言、眠いのだ――と答へたのみ。そして、深夜になると突然凄まじい家鳴りが起つたので、宿の主がその寝室に来て見ると、彼は寝台の傍らに俯向に伏して、悪魔のために絞殺されてゐた。)
――さよなら。」
と私は慌てゝ書いた手紙の封をしてしまつた。私はこの手紙をもつと続けたかつたのであるが、宇宙の神秘に目眩んで昏倒しさうになつたからである。私は、論理的抽象観念の超感覚圏から、悪魔に対する贖罪金を支払つて、精神生活上の最下級の安住地であるべき可見世界に渡りをつけて再び矛盾と闘ふべき情熱に欠けてゐた。私は、私の恩師がクラシカル・ヘレニズムの極美を讚嘆して、
「あれらの自己に対する信頼、現在の可見世界に於ける精神的創造の活動、祖先としての神々への純粋なる崇拝、芸術品としてのみの神々の讚嘆、力強き運命に対する帰依」――等の讚嘆詞に於ける神々を、鬼神《デモーネン》と訂正して、自身の蓋然思想《プロバビリスム》と争はずには居られなかつた。私は、私のファウスタスを再生せしむる為にはセラピスやイシスの秘法を受得して、彼を絞殺した文明宗教と戦ひながら、怪奇《バロク》な、そして華麗なる混沌芸術の地獄へ導かしめなければならなかつた。
「何うなすつたの、独りで、お酔ひになつたの?」
ヘレンが私の肩に凭りかゝつて訊ねるのであつた。彼女は、この酒場を訪れる多くのアグリタス達の「ジヤステイナ」である美しい酒注娘である。
「俺は、絶望の盃をもう一杯重ねる。そして、お前は、あのオルガンの前に坐つて、マルシアス河の悲歌を弾いて呉れ。」
「死んではいけないよ。――向方の隅にゐるお客様が、さつきからあなたの様子を見て、あれは何処の役者なのか、余程六つかしい役でも配《ふ》られたと見えて、可愛想に、酒場に来てまでも稽古に夢中になつてゐる。何を、何時、何処で演《や》るのか訊いて来て呉れ――ですつてさ。……それはさうと妾は擽つたくつて仕方がない、あのグロキシニアの花鉢の蔭からモノクルをつけて凝つと此方を視詰めてゐる生真面目さうなヴアンダイキの※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]紳士が居るでせう、あの大学教授つたらお酒は一杯も飲めないのに毎晩妾のために此処に来て、何とかして私の隙を見はからつては、妾の首筋から幾粒かの南京豆を妾の背中の中へ落し込んで、それが悉く妾の裾から床に滾れ落ちるのを見とゞ
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング