やうな眼つきをして、未だ見ぬ花やかな世界に憧れながら孤独の歌をうたひつゞけた。あの、ランプではないか。私は、破れかゝつた重く憂鬱な手風琴を取りあげると、重味を補ふための皮のバンドを十文字に背中に結びつけて、「奴隷の夢の歌」や「インヂアンの嘆きの歌」を弾奏した。そして、また「七つの星の歌」や「錬金鍛冶屋の労働の歌」や「翼ある馬の歌」などを歌つて情熱の空を駆け回つた。嵐の晩となると「メフィストフェレスの登場歌」や「ジークフリード遠征の歌」を高唱して奇怪な幻と闘つた。また私は「早稲田の歌」や「バッカスの行進曲」を弾奏し、意気に炎え、終には狭小の可見世界に居たゝまれなくなつて、春先きの或る日、歓楽をもとめて蜂のやうに都へ登つた。
 断末魔の瞬間には、過去の様々な経験や人物を一時に思ひ返すといふ話であるが、私もこの時、今にも息が止絶れてしまふかと思ふと、そんな他愛もないランプの周囲に集つた過去の様々な自分の憧れに満ちた表情が次々と現れては消えた。薄暗いランプの蔭で、おまけに飾りの氷柱がちか/\と光りを反射するので、表情の凹凸だけが暗闇の中に、明暗の線がくつきりと強い大写しになつてぼんやりと浮び出るばかりであつたが、孰れもあの村の部屋にゐたままの自分の姿だけである。それにしても様々な憧れに満ちた表情の動きは同じ顔かたちでありながら何と底深く洞ろな相違に充ちてゐることであらう! などと感心しながら私は、今床に打ち倒れてそんな夢を追つてゐる自分の表情を想像した。

     四

 次の晩私は机の前で、何うしても先へ進むことの出来ない書きかけの小説原稿を破き、
「あゝ、もう今年も暮れる。」
 などと呟いてゐるところに、友達の酒木と鱒井が訪れて、
「これは日本一の美酒である。」
「味つて、賞めて貰ひたい。」
 と一本の酒壜を差し出した。
「何といふ名前の酒?」
 と私が訊ねると、
「メイコン、迷へる魂、迷魂。」
 と得意気に答へた。
「何うして君はそのやうな銘酒を手に入れたの?」
 私は、ヨハンガストもどきの口調で質問すると、二人はそのいわれを詳さに説明したのだ。私は納得して、共々に健康を祝福する盃を高く挙げたのであるが、それはまあ何といふ不思議な酒であらう、常々強酒をもつて自認する私が、三つ目の盃を挙げた時は、もう魂が何処かの空へ飛んでしまつてゐた。
 二人は、私が近頃ファウスタスにのみ現を抜かして、悪魔に絞殺されかゝつてゐるのを感知して、バルザックその他の自然派の作物を読むことの忠告と、近いうちに共々に小旅行を試みようではないかといふ相談に来たのであつた。
 私は、それらの事を非常に賛成して、更に迷魂の盃を重ねた。そして、もう今日限りだと称して私は、ハインリッヒ・ヒルゼルの書中にあるファウスタスの、各国の朝廷を遍歴する冒険旅行談を試みたさうであるが、間もなく私は熱に浮されて、ボロ/\の部屋着のまゝで散歩に出かけた。呪はれた私は、二人の友達と何処で別れたのか更に記憶がなかつた。
「先生、私は迷魂と称ばれる銘酒を服用して、適度に酔うて来ました。間もなく私は自然派の作物を携へて旅行に出かけます。――今日は、お名残りです。」
 そんな夜更けでも未だ研究に没頭してゐるマイアム氏のスタディオを私は訪れてゐた。
「おゝ。恰度好いところに来て呉れた。ヘレンが助手になることを承諾して、さつきから仕事にとりかゝつてゐるところだよ。」
 云ひながらスヰッチを入れると、目の前のスクリーンに一個の人体が現れた。レントゲン光線の中に現れた、その人体はスパルタ風の体操を始めてゐた。
 マイアム氏は、やがてこれを映画に完成しようと心を砕いてゐる前の晩もあの酒場で私と出遇つたあのモノクルの教授である。自分は撮影技術のことばかりでなく様々な骨格の運動状態を見極めなければならないのだ。やがて自分の期する撮影機が完成すれば白昼凡ゆる場所に野外撮影に出かけて一切の生物の運動上の骨格状態を撮影しようと思つてゐるのだが、それまでは、この当り前のレントゲンで種々なモデルを頼んだ上で、標本を撮つてゐるのだが、その標本画のうちに未だ酔漢の運動状態だけが不足してゐる――と彼は兼々私の酔態が稀に見る奇体なものであるからモデルになつて欲しいと望まれてゐた。そして私もこれまで幾度か酒をあをつて、この不気味な光線の中に立つたのであつたが、何時の時でも私はいざといふ段になると酔が醒めてしまつて失敗に終つてゐた。
 スクリーンの人体は、スパルタ体操を終ると、右手をあげて此方をさしまねいた。
「ヘレンが君を招んでゐるんだよ。」
 G氏が斯う云ふので、私がスクリーンの向ひ側に入つて見ると運動シャツ一つになつて立ちはだかつてゐる綺麗な彼女に出遇つた。
「まあ、好く来て下すつたわね。」
 彼女は私の姿を認めるがい
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング