なや、いきなり私の首に抱きついて悦びの接吻を浴せた。私が斯んな好意を彼女から享けたのは初めてゞあつた。
「妾、もうさつきから心細くつて仕方がなかつたのよ。」
と彼女は私の耳にさゝやいた。「あの先生は、たゞの変質者に違ひないわ。活動写真を撮るなんてことは皆な嘘ぢやないのかしらと思ふわ。だつて、妾を斯んなところに立たせて、踊らせたり、体操をさせたりして、自分は向方側で黙つて見てゐるだけなのよ。」
「技手は、今夜誰がやつてゐるのだらう。」
私が、それを務める時もあつたので訊ねると彼女は、
「そんなこと誰だつたか気がつきもしなかつたけれど……さつきから彼の人つたら、昨夜《ゆうべ》妾が酒場で灯りを消してから、何んな踊りを踊つたか、それを是非見せて呉れツて諾かないのよ。」
と情けなさうに述べたてた。私は、G氏が彼女の云ふやうな平凡な変質者だなどとは思ひもしなかつたし、だから、先生は決して娘ばかりに興味を持つてゐるわけではない、僕の酔態に就いてなどもこれ/\の関心を持つてゐると説明しようかと思つたが、今の彼女の言葉に私は強く胸を打たれて、
「そして踊つたの?」
と胸を震はせて訊き返さずには居られなかつた。
「だつて別段踊り様も何もありやしないわ。妾は、たゞ昨夜だつて、あの時、出たら目の脚踏みをして南京豆を振り落してゐたゞけのことなんですもの。」
「…………」
私はG氏の胸中を推察した。そして、闇に描いた夢を飽くまでも実現させようとするG氏の執心に同情と敬意を払つた。
「たゞ、斯うやつたゞけなのよ――と云つて妾は、仕方がないから烏賊が泳ぐ見たいに体をくねらせたり、縄飛びをする時のやうに飛びあがつたりするんだけれど、お前は私を欺さうとしてゐるなんて云つて、何うしても信じないのよ。」
「……ヘレン、近いうちに僕達と一処に旅行に行かないか?」
私は、何う云つて好いか解らなくなり、胸苦しくなつたので話頭を転じた。
「えゝ、行くわ、妾、あの先生のモノクルから逃れられるんなら何処へでも行くわ。」
「さうか――」
と私は腹の底で唸つた。そして私は秘かに氏のモノクルを盗みとつたかのやうな怖れを覚えながら、
「ぢや約束しよう。温泉のあるスキー場へ行かうぢやないか……」
と誘つた。
「えゝ、はつきり約束しませう、先生に聞えないやうに――。嬉しい!」
とヘレンは思はず私の胸に顔を埋めた。
スキーと云へば、さつきヘレンが泳ぎとスキーに就いて経験があるとG氏に云ふと、G氏は、おゝ自分は未だそれらの運動状態の標本も撮つてなかつた、それを頼むと云つて、本物のスキーを穿かせられて、幾通りもの姿勢や、また台の上に載せられて、水泳のポーズも撮られたところである――とヘレンは附け加へた。
宇宙万有の真髄に向つて、学究の力をもつて、その神秘と闘はうとするのが念願であるG氏であるが、何うして斯うまで深く人体のことばかりに拘泥してゐるのだらうか、近いうちに質問して見なければならない――私が、フラフラとする脚どりでヘレンを抱きながら首をかしげた時、スクリーンの向方側のソフアで一休みしてゐたG氏が、
「ライト――」
と、技手に命じた。
灰白色の光線が私達の肉体を射透した。
「では、マキノ君、自由なポーズを示して呉れ給へ。」
G氏は私に呼びかけた。――いつの間にか私の「迷魂」の酔は醒めかゝつてゐたが私は、もうこれで当分G氏とも名残りか! などと思ひながら、
「オーライ、サー。」
と答へると、光茫の圏内を手を振り脚を挙げしながらグルグルと歩きまはつたり、四ツん這ひになつてヘレンに飛びついたりした。
すると、前夜の酒場の場合と全く同様なランプの幻が私の眼蓋の裏にあり/\と浮びあがつて来た。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説 第二輯」芝書店
1932(昭和7)年5月10日発行
初出:「文藝春秋」文藝春秋社
1931(昭和6)年2月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
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