地球儀
牧野信一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)呟《つぶや》いた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)これ[#「これ」に傍点]
−−

 祖父の十七年の法要があるから帰れ――という母からの手紙で、私は二タ月ぶりぐらいで小田原の家に帰った。
「このごろはどうなの?」
 私は父のことを尋ねた。
「だんだん悪くなるばかり……」
 母は押入を片付けながら言った。続けて、そんな気分を振り棄てるように、
「こっちの家はほんとに狭くてこんな時にはまったく困ってしまう。第一どこに何がしまってあるんだか少しも分らない」などと呟《つぶや》いていた。
「僕の事をおこっていますか?」
「カンカン!」
 母は面倒くさそうに言った。
「ふふん!」
「これからもうお金なんて一文もやるんじゃないッて――私まで大変おこられた」
「チェッ!」と私はセセラ笑った。きっとそうくるだろうとは思っていたものの、明らかに言われてみるとドキッとした。セセラ笑ってみたところで、私自身も母も、私自身の無能とカラ元気とをかえって醜《みにく》く感ずるばかりだ。
「もうお父さんの事はあてにならないよ。あの年になってのことだもの……」
 これは父の放蕩《ほうとう》を意味するのだった。
「勝手にするがいいさ」
 私はおこったような口調で呟《つぶや》くと、いかにも腹には確然としたある自信があるような顔をした。こんなものの言い方やこんな態度は、私がこのごろになって初めて発見した母に対する一種のコケトリイだった。だが、私が用うのはいつもこの手段のほかはなく、そうしてその場限りで何の効もないので、今ではもう母の方で、もう聞き飽《あ》きたよという顔をするのだった。
「もう家もおしまいだ。私は覚悟している」と母は言った。
 私は、母が言うこの種の言葉はすべて母が感情に走って言うのだ、という風にばかりことさらに解釈しようと努めた。
「だけど、まアどうにかなるでしょうね」
 私は何の意味もなく、ただ自分を慰めるように易々《いい》と見せかけた。こんな私の楽天的な態度にもすっかり母は愛想を尽かしていた。
 母は、ちょっと笑いを浮べたまま黙って、煙草盆《たばこぼん》を箱から出しては一つ一つ拭《ふ》いていた。
 私も、話だけでも、父の事に触れるのは厭になった。
「明日は叔父さんたちも皆な来るでしょう」
「皆な来ると言って寄こした」
 また父の事が口に出そうになった。
「躑躅《つつじ》がよく咲いてる」と私は言った。
「お前でも花などに気がつくことがあるの」
「そりゃ、ありますとも」と私は笑った。母も笑った。
「ただでさえ狭いのにこれ[#「これ」に傍点]邪魔でしようがない。まさか棄てるわけにもゆかず」
 母は押入の隅に嵩張《かさば》っている三尺ほども高さのある地球儀の箱を指差した。――私は、ちょっと胸を突かれた思いがして、かろうじて苦笑いを堪《こら》えた。そうして、
「邪魔らしいですね」と慌《あわ》てて言った。なぜなら私はこの間その地球儀を思いだして一つの短篇を書きかけたからだった。
 それはこんな風にきわめて感傷的に書きだした。――『祖父は泉水の隅の灯籠《とうろう》に灯を入れてくるとふたたび自分独りの黒く塗った膳の前に胡坐《あぐら》をかいて独酌《どくしゃく》を続けた。同じ部屋の丸い窓の下で、虫の穴がところどころにあいている机に向って彼は母からナショナル読本を習っていた。
「シイゼエボオイ・エンドゼエガアル」と。母は静かに朗読した。竹筒の置ランプが母の横顔を赤く照らした。
「スピンアトップ・スピンアトップ・スピンスピンスピン――回れよ独楽《こま》よ、回れよ回れ」と彼の母は続けた。
「勉強がすんだらこっちへ来ないか、だいぶ暗くなった」と祖父が言った。母はランプを祖父の膳の傍に運んだ。彼は縁側へ出て汽車を走らせていた。
「純一や、御部屋へ行って地球玉を持ってきてくれないか」と祖父が言った。彼は両手で捧げて持ってきた。祖父は膳を片づけさせて地球儀を膝の前に据えた。祖母も母も呼ばれてそれを囲んだ。彼は母の背中に凭《よ》りかかって肩越しに球を覗《のぞ》いた。
「どうしても俺にはこの世が丸いなどとは思われないが……不思議だなア!」祖父はいつものとおりそんなことを言いながら二三遍グルグルと撫《な》で回した。「ええと、どこだったかね、もう分らなくなってしまった、おい、ちょっと探してくれ」
 こう言われると、母は得意げな手つきで軽く球を回してすぐに指でおさえた。
「フェーヤー? フェーヤー……チョッ! 幾度聞いてもだめだ、すぐに忘れる」
「ヘーヤーヘブン」と母はたちどころに言った。
 それは彼の父(祖父の長男)が行っている処の名前だった。彼は写真以外の父の顔を知らなかった。
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング