た一遍話材にした以外には、不断はいい合せたかのようにそれについては口を緘《かん》して僕も、見て見ぬふりをして来たものである。
「……で俺は、この部屋を舟に見立てて意気を鼓しているんだよ。ちゃんとここに、こう旗をおし立ててあるつもりで……」
 その大酔の時に彼がこんなことをいって、壁にある旗の前に腕組みをして立ちあがったことを僕は憶《おぼ》えている。
「それだけに情熱があれば、間もなくそれはほんとうの海の上に飜ることになるに相違ないよ。」
と、その時僕もいって、彼の傍らに並んだことを僕は忘れていない。
「そうなったら俺たちは『七郎丸』を共有して大奮闘をしような。」
「約束する。」
と僕は点頭《うなず》いた。「やあ、俺はとても面白い、ペガウサスに打ちまたがって雲を衝《つ》いて行くかのような気がする。」
 僕たちは「ひらひらと打ちはためく旗」の傍らに、(酔っていたから、ほんとうに部屋が舟のように思われた。)あたかもギリシャ彫刻にある『大言家の像』のように屹立《きつりつ》して、両手を拡げて海の歌をうたった。
「その時が来るまで俺たちは結婚しまいぜ。」
「勿論だ。俺には、あらゆる女という女は悉《ことごと》く怪物《メジューサ》に見えてならないところだ。俺はパーシウス(女怪退治の勇者)の剣を、ジウスに授かって……」
 だが、この誓言は、その後間もなく互いの和議を持って諒解《りょうかい》した。――二人が学校を出て(七郎丸は水産講習所)間もない頃の、印象の鮮やかな僕の記憶である。何でも、その晩は、二人とも怖ろしく亢奮して、東の空が白む頃おいまで、
「帆を挙げろ!」
「オーライ――」
「旗をたてて……、ランラ、ランランラ!」
 などと声をそろえて狂い廻ったのであったが、その時、二人で、
「朝の掲旗式!」
 で、「七郎丸」の旗を壁に懸けたのが、いまだにそのままそこにあったのだ。
 七郎丸は、それ以来引つづいて、この観測台に務め続けて来たのである。何故《なぜ》か僕たちは、その一度だけで、まるで痛いものを避けるが如くに旗に関する一言ずつの会話も取り交さなかったのである。
 一言弁明して置くが、僕のAは飲酒家であるが、七郎丸との交渉は大方僕のCのみである。僕らが大酔のあまりかかる超現実性を帯びた亢奮状態を露《あら》わしたのは、その凡《およ》そ十年近き以前の一夜だけで、今日まで僕たちの間では平調
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