、此度はその声が、決してそんな風には私には響かなかつた。
「……あのね、あの、あたくし、斯んなことを直接に申すのは恥しいんですけれど……」
 と、つゞけて婦人は真赤な唇を手の甲でおさへながら、視線は決して私から離すことなく円らにうつとりとさせたまゝ「もう何年も何年も前から、あなたの作品のとても熱心な愛読者なんですのよ。」
 と、いともふくよかに呟いた。
「はあ、さうですか……」
 私は、落つき払つたつもりで答へたが、にはかに胸が激しい鼓動を打ちはじめた。
「やい、この低脳の風来坊! 手前えは、ぬすつとだぞ。歩いて来た時のボロツ着物を着て出て行きあがれ。」
 鶴井の声は益々高まつた。そんなことには私達は、至極慣れてゐたから誰も驚く者とてもなかつたが、罵り合ひは次第に激しくなつて、あたりを圧した。
「何とでも云やあがれ。――うぬ[#「うぬ」に傍点]が、お春に書いた手紙は皆な俺は読んで知つてゐるんだぞ。……ふつふつふ――だ。大した名文だよ。」
 倉閑吉は、くるりと鶴井に背を向けて皮肉気な嗤ひを浮べてゐた。すると鶴井は、突然、髪の毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]つて
「あゝツ
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