てゐるではないか。むうつとする酒の香りと煙草の煙りが濛々と渦巻いてゐる中に、しどけなく酔ひ痴れた男女がいくたりともなく折り重なつて累々たる有様であつた。――そして私達が入つてしまつた後から扉が閉められると、臆病窓に似た窓をたつた一つしか持たない小屋は牢屋のやうに薄暗くつて、あの明るみから飛び込んで来た私は、昼間の映画館に入つた時と同様に眼がそれに慣れるまでは余程の時間を要した。
「さあ、君が来るのを待つてゐたんだ、歌つて呉れ/\、例のナンシー・リーを――」
さういふ唸り声と一しよに、私の眼の先に茶呑茶碗の盃がぬつと突きつけられた。常々私が唱歌に関しては彼等のリーダーであつて彼等の歌ふ限りの大凡の種目は新旧の差別なく私の伝授に依るものばかりであつた。今、歌はれてゐた狸の唄は別だつたが――。
「やつぱり君が居ないと駄目なんだよ、何うも俺達覚えの悪いには吾ながらあきれたね、あんなに百万遍も教はつたナンシー・リーもリング・リング・ド・バンジヨウも乃至は旗の歌といひヤンキー・ドウルも、いざ歌はうとして見ると、おしなべてぽんぽこぽんの歌と同じ節になつてしまふんだよ。」
「君が先に立つて歌へば俺達
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