私は、夕映の逆光線を浴びて顔を歪めてゐる閑吉を見ると、たしかに、それは、カシモドと称ぶよりも、寧ろノウトルダムのシメイルのうちの何れかに類似してゐると思はれた。彼は画家と称して、一年ばかり前の春頃、凡そうらぶれた様子で何処からともなく歩いて、未知の私のところに宿を乞ひに来たのであつたが、いつの間にかから、小屋の連中と知合ひになつて今では此の方に移つてゐた。
 彼は、二度ばかり私に向つて、
「君の女房は、僕に惚れてゐるよ。」
 などゝ云つたことがある。平凡な好意を、自分にのみ特別なものと思ふ曲解者であるらしい――と私は思つたゞけであつた。然し私は、倉の不思議な虚栄心に好奇の眼を向けるやうになつてゐた。
「皆なが待つてゐるんですよ、早く来ませんか――」
 倉は、ありたけの声で呼んでゐた。と、倉の姿が急に消え去つて(どうも、襟元をつかまれて引き込まれたやうだつた。)鶴井大次郎が乗り出た。
「アトリヱまで、歌が聞えたでせう?」
 私は、点頭いて、それで出て来た由を答へた。
 鶴井は「馬」といふ仇名を持つてゐるが、別段何処が馬に似てゐるわけでもないのだが、声の珍奇な太さなどにも何か馬を聯想するところがあるらしい――などゝ、私は今更のやうに思つた。倉の矮小に比べて、鶴井は六尺豊の大男であつた。
 合唱中のあの[#「あの」に傍点]胴間声は鶴井であり、あの[#「あの」に傍点]てのうるは倉であることに私は気がついた。

     三

 で、私達がいそいで身仕度をとゝのへようとすると大次郎がさかんに手をふつて、そのまゝで/\と呼ばはるので、そのまゝ私も妻も上著を腕にかけ、泥の素足に靴を突つかけたまゝ小屋を目がけて駆け寄つた。小屋は相もかはらず此処を先途とはやしたてる合唱をはらんで、大浮れの絶頂であつた。ぽんぽこぽん/\のこうらす[#「こうらす」に傍点]が聴くも身の毛がよだつばかりに乱脈な調子で繰り返されてゐる。自分も酒に酔へばいつもあの通りに浮れて、あんな大はしやぎの旗振りになるのかと思ふと、真面目な人達に軽蔑されるのは無理もない――と私は思つた。
 扉をおすと、歌は突然ぴつたりと止んだが、その時私は、思はず、
「あツ!」
 と小声で叫んでしまつた。だつて、凡そ二坪ばかりの容体をもつた小屋の中に、まあ、何と、居るわ、居るわ! 数へやうもない、うよ/\とした者共が一杯、目白おしにつまつてゐるではないか。むうつとする酒の香りと煙草の煙りが濛々と渦巻いてゐる中に、しどけなく酔ひ痴れた男女がいくたりともなく折り重なつて累々たる有様であつた。――そして私達が入つてしまつた後から扉が閉められると、臆病窓に似た窓をたつた一つしか持たない小屋は牢屋のやうに薄暗くつて、あの明るみから飛び込んで来た私は、昼間の映画館に入つた時と同様に眼がそれに慣れるまでは余程の時間を要した。
「さあ、君が来るのを待つてゐたんだ、歌つて呉れ/\、例のナンシー・リーを――」
 さういふ唸り声と一しよに、私の眼の先に茶呑茶碗の盃がぬつと突きつけられた。常々私が唱歌に関しては彼等のリーダーであつて彼等の歌ふ限りの大凡の種目は新旧の差別なく私の伝授に依るものばかりであつた。今、歌はれてゐた狸の唄は別だつたが――。
「やつぱり君が居ないと駄目なんだよ、何うも俺達覚えの悪いには吾ながらあきれたね、あんなに百万遍も教はつたナンシー・リーもリング・リング・ド・バンジヨウも乃至は旗の歌といひヤンキー・ドウルも、いざ歌はうとして見ると、おしなべてぽんぽこぽんの歌と同じ節になつてしまふんだよ。」
「君が先に立つて歌へば俺達も歌へるんだから、一つ、まあ端から順々に披露して呉れ。」
「――何を、はにかんでゐるんだい。愚図々々してゐると喉を絞めるぞ。」
 八方から所望されるのだつたが、私は、白面といふばかりでなく、知らぬ人の顔が大分見うけられるので、有無なく調子に乗るわけには行かなかつた。で、私は、そんな呑み方は不得意であつたが、目をつむつて茶碗の酒をひつかけたが、さつぱり動く気色も感ぜられなかつた。
「さあ、歌へ/\、このモダン男……」
 さう云つて向方側の隅から私に飛びかゝつて、実に堪らない口の悪臭をはあつと私の鼻に吐きかけた男に気づくと、緑山寺の和尚であつた。アトリヱの丘つゞきにある寂れた寺の住職で此処から歌が聞えると、とるものもとりあへず、生垣を飛び越えて屹度駈けつけて来るのである。四五日前、珍らしく鶴井が野良装束になつて、生垣のはちす[#「はちす」に傍点]の手入れをしてゐるところを見たので、私は、はちす[#「はちす」に傍点]の花を貰はうとして傍へ行くと、
「今ね、和尚の道を塞がうとしてゐるところなんだよ。どうも酒樽が着いて以来、泊りがけの御入来でね。」
 と寺の方を指さしながら、生垣の穴をつくろつて
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