ゐた。――不図、そのことを思ひ出したので、私は窓に伸びあがつて生垣の方を眺めると、此間鶴井がぶつ/\云ひながら塞いでゐた生垣には前にも増した大きな花のトンネルが、鏡のやうに光りを吐いてゐた。倉や鶴井は、あの和尚は和尚らしくなくて、喧嘩と猥談にのみ長けた大生臭だ――と顰蹙するのであつたが、私には彼等自身の方が、寧ろそのまゝの言葉に適当する者と思はれた。
「俺が卵を売つた金で酒をぶらさげて帰る時だけは、奴等は、緑山寺さんだとか、大師さんだとかと云つてちやほやする癖に、此頃鶏がトヤについて俺の収入の道が絶えたとなつたら、忽ち手の裏を返しやがるんだよ。」
奴等といふのは眼の前にゐる倉や鶴井を指すのであるが、和尚は憤慨に堪へぬといふ口吻で私に詰め寄るのであつた。――「俺あ、ちやんと見たんだ、鶴井の野郎が垣根の穴を塞いでゐるところを――べらぼう奴、あんなものを突き抜くのは一ト息だよ。……あつはつハ……さあ、飲め、さあ、飲め、そして歌をうたふんだよ。」
「とつ、とつ、とつ……」
私は云はうとした言葉が、何故か急にどもつてならなかつた。「とつ、とつ……鶏《とり》が、何うかしたんですか?」
私の傍らにゐる一人の実に美しい(と私に思はれた。)、凡そ、この小屋に不調和な近代風の洋装をした断髪の婦人が、女だてらにあぐらに似た坐り方で、この人だけはウヰスキイのポケツト壜を前にして栓のグラスを傾けてゐるのであつたが、稍ともすると、凝つと私の方を向いて、此方の思ひなしのせゐか、なんとも甘々しい視線でいつまでも私を眺めるのであつた。――それが私は気になつて堪らなかつた。
「寒玉子で一番大いに儲けてやらうと、たくらんでゐたところが、つい先頃鼬の奴にねらはれてあらかた生血を吸はれてしまつた上に、残つた連中が五羽ながら雄でね、二羽の雌と来たらそれ、そのトヤといふものにつきやあがつて、さん/″\の態たらく……」
「そ、それあ、どうも――」
と私は上の空で同情した。
そのうちに、あちらはあちらで、倉と鶴井の激しい喧嘩がはじまつた。
「まあ、大さんの声の大きいこと……」
と婦人は、さう云つて、ほゝゝゝとわらつて、また、私の顔を見あげた。さつきの合唱中のあの「無神経質な偽陶酔状態を感ぜしめて身を切らるゝ百舌鳥に似たそぷらの[#「そぷらの」に傍点]」と形容した女声は、この人だな! と私は思ひあたつたが、此度はその声が、決してそんな風には私には響かなかつた。
「……あのね、あの、あたくし、斯んなことを直接に申すのは恥しいんですけれど……」
と、つゞけて婦人は真赤な唇を手の甲でおさへながら、視線は決して私から離すことなく円らにうつとりとさせたまゝ「もう何年も何年も前から、あなたの作品のとても熱心な愛読者なんですのよ。」
と、いともふくよかに呟いた。
「はあ、さうですか……」
私は、落つき払つたつもりで答へたが、にはかに胸が激しい鼓動を打ちはじめた。
「やい、この低脳の風来坊! 手前えは、ぬすつとだぞ。歩いて来た時のボロツ着物を着て出て行きあがれ。」
鶴井の声は益々高まつた。そんなことには私達は、至極慣れてゐたから誰も驚く者とてもなかつたが、罵り合ひは次第に激しくなつて、あたりを圧した。
「何とでも云やあがれ。――うぬ[#「うぬ」に傍点]が、お春に書いた手紙は皆な俺は読んで知つてゐるんだぞ。……ふつふつふ――だ。大した名文だよ。」
倉閑吉は、くるりと鶴井に背を向けて皮肉気な嗤ひを浮べてゐた。すると鶴井は、突然、髪の毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]つて
「あゝツ、口惜しいツ!」
と叫んで、ワツと泣き伏した。そして、「倉の奴は、自分が、文字といふものが何一つ書けないことを飽くまでも秘密にして、俺が書いた手紙を、そつと手写して、事もあらうにそれをそのまゝ、お春に渡して、加之に俺のことを、さん/″\にこき降した。」
と身を震はせて泣きながら、鶴井は誰にともなく大喚きに訴へた。鶴井は、もう、たしか四十歳であつたか? と思ふ。
「鶴井――」
と和尚が呼んだ。――「その手紙は倉に頼まれて俺が写してやつたんだよ。いきさつを詳しく聞きたかつたら、はちす[#「はちす」に傍点]のトンネルを俺の背丈けに明けたならばね……」
こつちでは、私の作品の「愛読者」が、
「あの、妹さんでいらつしやるんですか?」
と私の妻に訊ねてゐた。妻が、それに答へそびれて、どぎまぎとしてゐる様子だつたから私は代つて、云はうとした時、不図食膳の蔭にある私の手を、徐ろに力を加へながら握る者があつた。
妻かしら? と私は思つたので、見ると、妻は和尚を隔てた隣りで、熱さうに両掌で頬をおさへてゐた。
私は、ドキツとして慌てゝ手を引かうとすると、力一杯手首をつかまれてしまつてゐた。――
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