てゐるではないか。むうつとする酒の香りと煙草の煙りが濛々と渦巻いてゐる中に、しどけなく酔ひ痴れた男女がいくたりともなく折り重なつて累々たる有様であつた。――そして私達が入つてしまつた後から扉が閉められると、臆病窓に似た窓をたつた一つしか持たない小屋は牢屋のやうに薄暗くつて、あの明るみから飛び込んで来た私は、昼間の映画館に入つた時と同様に眼がそれに慣れるまでは余程の時間を要した。
「さあ、君が来るのを待つてゐたんだ、歌つて呉れ/\、例のナンシー・リーを――」
さういふ唸り声と一しよに、私の眼の先に茶呑茶碗の盃がぬつと突きつけられた。常々私が唱歌に関しては彼等のリーダーであつて彼等の歌ふ限りの大凡の種目は新旧の差別なく私の伝授に依るものばかりであつた。今、歌はれてゐた狸の唄は別だつたが――。
「やつぱり君が居ないと駄目なんだよ、何うも俺達覚えの悪いには吾ながらあきれたね、あんなに百万遍も教はつたナンシー・リーもリング・リング・ド・バンジヨウも乃至は旗の歌といひヤンキー・ドウルも、いざ歌はうとして見ると、おしなべてぽんぽこぽんの歌と同じ節になつてしまふんだよ。」
「君が先に立つて歌へば俺達も歌へるんだから、一つ、まあ端から順々に披露して呉れ。」
「――何を、はにかんでゐるんだい。愚図々々してゐると喉を絞めるぞ。」
八方から所望されるのだつたが、私は、白面といふばかりでなく、知らぬ人の顔が大分見うけられるので、有無なく調子に乗るわけには行かなかつた。で、私は、そんな呑み方は不得意であつたが、目をつむつて茶碗の酒をひつかけたが、さつぱり動く気色も感ぜられなかつた。
「さあ、歌へ/\、このモダン男……」
さう云つて向方側の隅から私に飛びかゝつて、実に堪らない口の悪臭をはあつと私の鼻に吐きかけた男に気づくと、緑山寺の和尚であつた。アトリヱの丘つゞきにある寂れた寺の住職で此処から歌が聞えると、とるものもとりあへず、生垣を飛び越えて屹度駈けつけて来るのである。四五日前、珍らしく鶴井が野良装束になつて、生垣のはちす[#「はちす」に傍点]の手入れをしてゐるところを見たので、私は、はちす[#「はちす」に傍点]の花を貰はうとして傍へ行くと、
「今ね、和尚の道を塞がうとしてゐるところなんだよ。どうも酒樽が着いて以来、泊りがけの御入来でね。」
と寺の方を指さしながら、生垣の穴をつくろつて
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