泉岳寺附近
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)扮《な》らせて
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いら/\として
−−
一
泉岳寺前の居酒屋の隅で私が、こつぷ酒を睨めながら瞑想に耽つてゐると、奥で亭主と守吉の激しい口論であつた。
「こいつ奴、よく喋舌りやがるな。」
「喋舌るさ。喋舌られるのが厭だつたら、自分こそあんまりケチなことを云ふない。」
「やい、守吉、俺はケチで憤るんぢやないんだぞ。気をつけろ……」
亭主の方は店に遠慮して、口のうちに癇癪を噛み殺しながら仕切りにぶつぶつ小言を吐いてゐる模様だつたが、守吉の方は親父の弱味をねらふかのやうに疳高い金切り声を挙げるのである。
「そんなに、あれが大事なら、稀には遊び道具位ゐ買つて呉れ――」
「未だ抜かすか、こいつ奴!」
「おやツ、打つのかね。打つなら打つて御覧なさいだ、やあい、青くなつてゐらあ、可笑しいや!」
しかし守吉の声は、口惜しさのあまり涙に震へてゐた。
「こいつ、何て口の減らねえ野郎だつ!」
「さあ打て……殺さば殺せ……だ!」
「野郎――!」
亭主が叫んだかと思ふと、コキンと、たしかに守吉の頭に拳固が鳴つた。
「あツ、痛てえ痛てえ、やりやあがつたな!」
守吉は、おそらく実際の痛痒を倍にも誇張した底の、憎々しい居直り声を張りあげてあらん限りに、
「痛てえ、痛てえ!」
と絶叫した。そしていつまでもそれを連呼するのであつた。さすがに亭主の方が堪りかねて、
「何てえ、始末の悪いガキだらう!」
チヨツチヨツと舌打ちしながら店に現れると、私の他に二人ゐた職工風の若者に向つて、
「いや、何うも飛んだ騒ぎで……」
と恥しさうにあやまつた。
まつたくあれが子供の口かと思ふと、埒外の私達でさへ驚いて顔を見合せたのである。亭主はてれたわらひを浮べてゐたが、顔には血の気が失はれて、呼吸を秘かにはずませてゐた。守吉は亭主の長男で尋常五年生である。愚図で好人物で、そして物を言ふのにも相手の顔さへまともには決して見ないといふ風な無口の亭主に引きかへて、守吉は常々、もつと豊かな喋舌家である。
「あゝ、痛てえ痛てえ痛てえツ!」
守吉は、手脚で激しく畳を打ちながら皮肉な悲鳴を挙げつづけてゐた。
「しかし、また、何うしたつてえことなのさ、子供の頭を擲るなんて……」
堪りかねた一人の職工が、亭主に質問をかけると、彼は益々具合が悪さうに、うろうろして、いやどうも――と紛らせながら、奥に向つて、
「おいおい、好い加減にしろよ、守吉、煩せえぢやねえか……」
と弱い妥協を申し込んだが、子供は益々激しく悲鳴の火の手を挙げてゐた。――「太鼓を買つて呉れ、ケチなこといふ位なら太鼓と刀を買つて呉れ!」
私は彼と、往来で出遇へば微笑を交す程度の仲であつたが、彼が仲間と遊んでゐるところなどを見ると、斯う云ふ商売の息子であるせゐか、酔客の口説を真似ることや、野卑な冗談を吐いたりすることが非常に巧者で、聞くだにひやひやさせられる場合が屡々だつた。そして私は、彼の薄い皺のやうな感じが漂うてゐる煤色の顔や、小さく凹んだ眼や、乾いて艶の悪い唇や、へうきんに身軽な挙動や、ちひさく痩せた躯の恰好などに、雀に接するやうな滋味を感じてゐた。
「君は随分やさしさうに見えるが、稀には癇癪を起したりすることもあるんだね。」
奥の叫び声ですつかり憂鬱になつてしまつたらしい亭主に、私が話しかけると彼は困惑の色を益々深くして、不精無精にその原因を語つた。
この居酒屋の軒先には、泉岳寺に因んだ小型の陣太鼓が看板になつてゐた、私は、呑屋の屋号としても、また私のこの頃の酷く打ち沈んだ気分として、そんな颯爽たるおもむきの文字がひとごとながら気恥しいので、単に、居酒屋と、この文中にもあしらつておくだけなのであるが、そして話の場合でも単に「泉岳寺の前で待つてゐるから」といふ風に称んで決して屋号は知らぬ風に過してゐるのだつたが、この居酒屋の名前は、「陣太鼓」といふのであつた。しかし私は、そんな、ほんものの看板がぶらさがつてゐたことは今まで気づきもしなかつたのである。
ところが、いつもいつも守吉は、そつとこの看板を盗み出して、泉岳寺の裏山に同勢を集めては「義士の討入ごつこ」を演ずるといふのだ。
話しながらでも、奥の罵り声がひびく度毎に亭主は、稲妻にでも射られるかのやうに堪らぬ身震ひをして思はず立ちあがらうとするのであつた。看板をおもちやにする位ゐのことなら、何もそんなに威猛高になつて激昂するにも当るまい、あの子供の云ひ草が疳に触るのは無理もないが――それにしても私は寧ろ亭主の神経的にあられもない姿が不可解であつたが、その時更に憾みがましい守吉の叫ぶ、し
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