みつたれ! などいふ声が耳をつんざくと、亭主は矢庭に奥へ駆け込まうと身構へたので私は腰かけから飛びあがつて慌てて彼を抱き止めた。
「殿中でござるぞ、殿中で……」
 守吉が私達の傍らを鼠のやうに駆け抜けながら、そんな嘲笑を浴びせた。
 討入りの合戦なら、さつきも私は裏山を抜けて此処に通ふ道すがら、近頃花々しい大仕掛けの光景を見せられた。私は、いつも高輪御所の前通りから、近道の空地を選んで泉岳寺の裏山へ抜けた、そして高輪中学の前を泉岳寺の横手から、恰度、内蔵之介の銅像の背後を通つて、山門から外へ抜けるのであつたが、しよつちゆうゆききしてゐる近隣の居住者であるとも気づかず、そこの土産物を商ふ店からは、通る度に声をかけられるのだ。
「ええ、お土産はいかがさま、義士のハツピに源蔵の徳利はいかが?」
「両刀使ひの木刀はいかがさま?」
「ええ大石の陣太鼓はいかが!」
 私は聞き流すだけで、注意もしなかつたが、裏の山で実演される義士達の持物やら衣裳のおもむきが仲々念入りで、俳優達のしぐさといひ、科白のものものしさなどは、街々で見かける鉄兜の戦ごつことは雲泥の相異なので、さすがに土地柄だけあるものだと舌を巻いて思はず見物することがあつた。売店の軒先に昔ながらの絵草紙が展げてあるのを子供達が恍惚として見あげてゐるさまを屡々瞥見した。
 この日も私が口笛を吹きながら空地にさしかかると、向ふの切株の上に陣羽織姿の大石内蔵之介が立ちあがつて、いまや打入りの太鼓を鳴らさうと身構へてゐるところであつた。やがて、掛声と共に山鹿流の太鼓の音が物凄く鳴り響いたかと思ふと、八方の草むらからうしろ鉢巻の浪士が、どつと鬨の声を挙げておし寄せた。――私は、邪魔になつてはいけないと気づいたから大急ぎで坂を降りようとした時、不図横目で見ると内蔵之介は守吉であるのが知れた。むかふは必死の勢ひで通行人などには気づきもしないらしく(それに私は嘗て、その遊びの面白さに釣られて見物しようとしたところが、浪士達が急にてれてしまつて立廻りを中止してしまつたことがあるので、見えがくれに駆け出したのである。)中学の裏手にあたる雨天体操場の吉良邸へまつしぐらに攻め入るところであつた。太鼓の音は次第に急速度に、小きざみに消えるかとおもふと、再びもとへもどつて力一杯、突喊の脚並をねらつて颯々と鳴り響くのであつた。私はいつか山門の売店で陣太鼓を買つたことがあるが、それは力を入れて打てば破れるほどのおもちやであるのに、守吉の太鼓はあまり調子よく鳴り渡るので不思議に思つて遠くから注意して見ると、何処からあんな本物を探して来たのだらう――と、その時は思つたのである。骨董品のやうな重味を持つた立派やかな太鼓で、胴には朱色の房が結ばれ、皮には金泥に漆黒の巴印の紋章が浮んでゐた。
 私は、凹地づたひに崖下に降りて石垣と石垣にはさまれた露地を駆け抜けようとすると、角の物置の蔭では、吉良方の一隊が縫込みの稽古着に袴の股立ちをとつて、互ひに清水一角に扮するのを争つてゐる最中だつた。
 不図、太鼓の音が止絶れたので私が物蔭から振り返つて見ると、守吉が崖の上から上半身を乗り出して、狼のやうな形相で呶鳴つた。
「やいやい、何を愚図々々してやんだい、早くしねえと俺あ帰つちやふぞ。」
「守ちやん、あたいにも一度で好いから大石に扮《な》らせて呉れよ。」
 崖下から呼び返す者があつた。守吉は驚いて小脇の太鼓を両腕に抱へ直した。
「馬鹿野郎――家へ聞えたら大変なんだぞ、だから俺はとても苦労しながら叩いてゐるんぢやねえか、いつまでも遊んぢやゐられねえんだよ。」
 守吉の太鼓は余程の権威を持つてゐると見えて、彼が半狂乱の態でそんなに叫ぶと、吉良勢も陣容をたて直した、再度の討入りを互ひに合図し合つてゐた。
 鉄兜の新しい戦争ごつこが始まつたので吻つとしてゐたところが、やはり彼等にはあの旧劇の方が変化の興味が多いと見えて、いつの間にかもとへ戻つてしまつた。当分は悩みが絶えぬであらうといふ意味のことを滾しながら亭主が、今日守吉を捕へてからのことを話し出した時、私が待つてゐたところの進藤一作と坂口按吾と枝原源太郎達が到着したので、私達は私達だけで文学の話を始めた。それにしても私の耳の底には、守吉の打つ太鼓の音が、はつきりと残つてゐた。家に悟られぬための技巧の苦心があつたのかと知ると、はじめ私は単に彼が腕を揮つて、あんな風に大きく振りあげた撥を宙に構へて、容易に太鼓の面に降さうとはせず深い見得を切つてゐる姿を、得意の陶酔状態だとばかりに眺めたのが、此方こそあまりに呑気なわけ知らずであつたと思はれた、考へて見ればあの守吉の太鼓の打ち方は、漸く撥を降してドンと一つ大きく響かせたかと思ふと忽ち煙りのやうにどろどろと余韻を曳かせて、やがてまた思ひ切つてド
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