枝原を促して立ち去つた。これまでに私は進藤の小説を幾篇か読み、相当の敬意を持つてゐたが、今日の「大きな手」と題する短篇は近来の快作だつた。私は、何んな類ひの賞讃辞を与へたら好からうか――と、親しい間柄の進藤の場合であるだけに寧ろ白面の推賞が息苦しかつた。愛読に値する二人の新しい作家を同時に友達に得られるなどとは私にとつては全く稀有の現象だつたが、大分前に私は枝原の或る小篇を亦、あまり口を極めて推賞しすぎたゝめに、彼は近頃嘗ての私の賞讃辞をおそれて、創作気分に頓坐を来してゐた。その枝原の「危禍」を思ひ合せても、今日の進藤に対して私は苦しい注意を抱かねばならぬと思つたのだ。それにしても進藤の「大きな手」は、恰も私はガンと頭を打たれて痴夢を醒された態の快作で、作者の顔をうかがふすら息苦しかつた。
「一万八千円の財産から、一万円を張り込むのは少々山カンだが、まあ好いだらう。」
 守吉は、陶然と眼をかすめて意地悪るらしく頤を撫でたりした。
「一万円宛で、もう二度やるんだぞ。」
 考へて見ると私は、その時三千円の支払ひ能力すら皆無だつたので、一挙にして二万の金を攫得してしまはうと念じた。
 やがて合戦は、黒雲をはらんでじり/\と開始された。敵も左うであつたが、私も今度こそはじつくりと下肚に力をこめて、爬行的におして行く駒が目的の場所に息を休めても即座に指先を離さぬ留意振りで、両眼を皿と擬した。私は水の底を潜ると同様に、一つの駒が行手に収つて、漸く指先を離すまで、真実呼吸を断つた。そして深い吐息を衝きながら凝つと敵の戦略を見守つた。凡そ三十秒乃至は一分毎に、恰も空気枕の栓を抜いた刹那の如き放出音が、敵と味方の堅い唇から、交互に盤面にあたつてゐた。――余儀なく互ひの軍兵は、いつか点々と隊をそろへて盤の中央に斜めとなつて二列に対陣して、進む道を失つた。
「お前の番だよ。」
 憤つとして私は、せきたてた。守吉は、隅の駒を震へる指先きで徐ろに退けたが、やがて、
「しめたツ!」
 と力一杯叫ぶや、突然立あがつて、夢中で架空の陣太鼓を打つた。
「ど、どどん、ど、どどん、どどんどどんどどん!」
 狂へるが如き凱歌であつた。「二万八千円、二万八千円、わあツ!……」
 私には未だはつきりと意味が解らないので、ともかくその胸を突いて畏る畏る一歩を踏み出すと、すつかり落つき払つてしまつた敵の将軍は、太
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