足を洗つて炉端を囲んだ。そして私は、老婆に向つて、自分達は、野に寝、山に寝――しながら、この山を超えて、甲州路へ出ようとしてゐるんだ! などと云ふと、老婆をはじめ、家族の者達は、即座に手を振つて、それは無謀だ、ヤグラ岳には今でも狼が出るよ、道らしい道もない、甲州路へ出るには此方の明神ヶ岳を超えて三島へ降り御殿場から富士の裾野を廻つて大月駅を目指さなければならぬだらう――と説明した。
「狼位ゐ出たつて、こいつがあれば大丈夫だよ。面白いや!」
「だけど狼は、喰へねえだらうな。」
「それこそ、まづいにきまつてゐる。」
 皆は口々に斯んなことを云つたが、内心ではこの儘、R村に当分滞在すべき安心を覚えてゐたのである。
 老婆は嫁を相手に餠つきをはじめた。
 その晩私は、老婆の言葉に依つて、私の所有に関はる少しばかりの田畑がR村に在ることを遇然に知らされた。そして一行の者は、その田畑をたがやすことに依つて、糧食が得らるゝであらう――といふことを知り、安堵の胸を秘かに撫で降した。
 翌日から私達は、市場通ひの馬車を駆つたり、水車小屋で米袋を担いだり、田の草をとつたりする労働にたづさはりはじめて、健や
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