川を遡りて
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)支《つか》へて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|宛《づゝ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)行きませう/\、
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私たちは、その村で一軒の農家を借りうけ、そして裏山の櫟林の中腹にテントを張り、どちらが母屋であるか差別のつかぬ如き出放題な原始生活を送つてゐた。
或朝テントの中の食堂で、不図炊事係りの私の妻が気附くと、パンが辛うじて、その一食に足りる程度しか無かつた! のを発見して、叫んだ。
「正ちやん――あたし、うつかりしてゐたのよ。済まないけれど、お午までに町まで行つて兵糧を仕入れて来て呉れない。」
「町へ行くのは何でもないけれど――為替は来てゐるの?」
「未だなのよ。」
妻は苦笑を浮べて私の顔を眺めた。私は生のキウリを噛りながらパンを頬張つてゐたが、妻の注視を享けると、食物が胸に支《つか》へてしまつて、嚥込《のみこ》むことが出来なくなり、ギヨツとした。――すると、そんな切端詰つた場合であつたにも係はらず、一同は、私の眼つきが、昼間の梟のそれのやうに間が抜けてゐて、見るからに気の毒気である! と評して、賑やかに笑つた。
斯んなやうな類ひの出来事で忽ち仰天の色を顔に現し、真に眼を白黒させるが如き痴態を示すのが、最も速やかな分別を示さなければならぬ筈の立場にある私だつたから、このキヤンプ生活は恰も隊長のない探険隊に等しかつた。
「それあ、町へ行くのはドリアンを飛ばせて行くんだから僕は返つて面白いけれど、何しろ先月からは何も彼もキヤツシでなければ寄《よこ》さないといふ規定が出来たのでね。然し僕等は何もそれがために特別な憂慮を持つことは要らないのさ。僕等だけに対して、そんな規定が出来たといふわけではなくつて……」
「そんな憂慮なんてことは知らないけれど、ともかく、お午までにあたし達は……?」
「身にするものとか、物品とかを売るといふ術はあるが……?」
「術はあつたつて、価値のあるものなんて何もないからね……?」
「何うしよう、タキ
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