。」
 鉄砲に自信を持つ正吉(大学生であるが通学を嫌つて何時も私達の後を伴いて回つてゐる弟)が、既に夕霞みが低く垂込めて灰色に煙つてゐる彼方の森を指差して、負け惜みを云つた。
 ところが、その村には娘の知合の家があつて、娘が知らせたと見えて私達が河原に、テントを張り夜食にとりかゝらうとしてゐるところに、主が迎へに来た。是非一同に泊つて欲しい! と云ふのであつた。皆は辞退したが私は、テントよりも当り前の住宅の方を好む者であつたから、遠慮なくその主の大きな炉のある家へ赴き、馬の話に興がつて酔ひ倒れるまで酒を飲み、また、一行を呼び寄せ、手風琴を弾いて、ドンチヤン/\と踊つたり歌つたりした。
 翌日は、次の村に到着しないうちに、谷川のある森で日が暮れかゝつたので、三つのテントを流れの傍らに張り、盛んな焚火をして、其処に泊つた。――正吉が、山鳥を一羽打つたので、そして娘が前の晩に家から※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を一羽と野菜類をおくられたのがあつたので、私達は、平和な夜食を執ることが出来た。酒は、もう無かつたので、私達は焚火の傍らで、おそくまでポーカーの手合せに耽つた。――負けた者は次の村で、酒の工面をする! といふ、空しい約束で――。
 私が、負けた。
 翌日の午頃次のR村に着いた。毎日々々麗はしい天候が続いてゐた。
 私は、酒のことが気にかゝつて、一行から稍おくれて、何となく迂参な眼つきをしながら、家々を眺めながらとぼ/\と歩いて行くと、梨の花が咲いてゐる納屋の傍らで藁をきざんでゐる老婆が、不図此方を向き、稍暫らく凝ツと私の顔を見守つてゐたかと思ふと、突然、
「まあ!」と頓興な声を挙げた。
「お前さんは、新町のお坊ちやんぢやねえかのう? まあ/\、好くお出なすつたのう。」
「婆やか……」と私も頓興に叫んだ。私は乳児の時代にこの老婆の乳をのんだ由である。それが縁でつい二、三年前まで春、秋には毎年老婆は農産物を携へて私の生家を訪れてゐたが、私の家が私の代になると、居所不明になり、私も、今が今迄老婆のことは忘れてゐた。
 私は、声を挙げて先に立つてゐる一行を呼び返した。
「よくまあ、婆やのことを忘れずに来て下すつたのう。おゝ/\、永生《ながいき》はしたいものぢやわい。それで、お坊ちやんはお幾つにおなんなすつたかな?」
「三十四――」
 私達は、はねつるべの井戸端で
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