字してゐた。酒を飲む他に何の能もなく、余技に親しまうとする澄んだ精進の心のない野卑な夫に、一層習字をすることをすゝめようかしら、などゝ思つた。
「ぢや、さよならとしようかア、まア好いだらう、僕の処でもう少し飲まう/\。」
突然往来から、怒鳴るやうに大きく濁つた滝野の声が響いた。周子は、思はずハツと胸を衝かれて筆を置いた。(体の小さい奴に限つて、酔ひでもすると、とてつもなく大きな声を出したがるものだ、豪勢振つて――)周子はそんなに思ふと気持の悪い可笑しさと、唾でも吐き度い程の憎くさを感じた。
「もう君、遅いよ/\。」
その声は、遠慮深く、迷惑さうに低いのである。
「僕の家なら好いだらう、借りてる以上は俺の自由だ。」
何処かで追ひ立てられて来たんだな――と周子は思つた。時計を見ると、もう二時に間もない。(借りてる以上――とは何たる馬鹿だらう、卑しい法律書生でも云ひさうなことだ、法律書生なら安眠妨害といふ罪を知つてゐる、小田原の漁師のやうだ。)周子は、カツとして机を叩いた。
「止さうよ/\。」
「もう少し芸術の話を続けよう。」
(チヨツ/\!)周子は強く舌を鳴した。
「芸術の話ならしよ
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