夜、裏庭に忍び出て、松の木にそれを吊して晴々と闘ひを演じたこともあつた。円盤や投槍や剣術の道具を買つたのもその頃だつた。だがそのうちのどれも、一週間とは続かなかつた。彼は、相手を求める熱心さに欠けてゐたし、独りぽつちの馬鹿/\しい運動には直ぐにテレ臭さを覚えて了つたから。
「東京住ひは苦しいことだな、それぢや始終袴をはいた気でゐなければならないんだね。」
「田舎だつてほんとうは、あなたのやうな不行儀な人は……」
「よしツ、もう決心した。これから俺は東京市民にならなければならないんだからね、浮《う》か/\してもゐられまい。」彼は、生真面目な心でさう云つた。周子に非難されてゐる事実ばかりでなく、広く自分の生活にそんな風な楔を打たなければならない気がした。
 その晩も滝野は、遅くまで帰らなかつた。
 周子は、子供を寝かしつけてから、灯火を低く降して習字をしてゐた。あたりは森閑として、時たまけたゝましい響きをたてゝ走る自働車の音が消ゆると、何処からともなくもう秋の虫の声がした。
「斯う遅いんぢや、さぞかしまた酔つて帰つて来ることだらう。」
 周子は、そんな心配をしながら、健腕直筆の心をこめて習
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