ても、どうも弱つたなア……斯う行き詰つては仕方がないなア……よしツ、兵式体操でもやつて見よう。」
 さう云つて彼は、直立不動の姿勢を執つた――この上、そんな馬鹿なことを演られては堪らないと気づいた周子は、勇気をふるつて再び夫に飛びついた。そして、五体に満身の力を込めて、やつとのことで彼を寝床の上にねぢ倒し、頭の上から被着《かひまき》をかぶせて、しつかりと圧へつけて離さなかつた。そして口のあたりを、拳固をかためて塞いだ。その下で滝野は、あらん限りのしやがれ声を振りしぼつて、
「前へ――進めツ!」とか
「回れ右、前へ、おいツ。」とかなどと、勇敢な号令をかけてゐた。だが、好いあんばいに――と周子が思つたことには、それらの懸声は、ハンケチをつめ込んで吹き鳴してゐるラツパの音のやうに、重苦しく微かにかすれて、四隣に響きわたることはなかつた。

 翌朝早く、西隣りの洋館に住んでゐる温厚な文学士が、滝野の朝寝坊の戸を叩いた。文学士は、近隣の迷惑を代表して、抗議と親切な注意とをもたらせたのである。
 滝野は、何の返す言葉もあらう筈はなく、たゞぺこぺこと安ツぽく頭をさげてゐたばかりだつた。
 その日から
前へ 次へ
全36ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング