んな用もなくて夏羽織とか夏袴とかを着用した経験がなかつた。前の年の夏などは郷里が海辺だつたので、堅い麦藁帽子を一度も冠らずに済んだ位ゐだつた、経木の帽子より他に用がなかつた。
 この夏から彼は、東京に住むことになつた、母には新聞社へ務め、傍ら文学の研究に没頭してゐると称してあつた。
 二ヶ月程前、或る文学雑誌のゴシツプ欄に「文壇内閣見立」といふ戯文が出たことがあつた。現代文壇の著名な文学者を夫々の大臣に見立てたものであつた。そして各々の大臣の秘書役として、大臣文学者の門を叩いてゐる文学青年のうちで最も意久地のなさゝうな一人を夫々一名宛挙げて、秘書役になぞらへて痛棒を喰はせた皮肉な見立なのであつた。滝野清一は、逓信大臣北上川栄二の秘書役に抜擢されてゐた。
 その雑誌が出てから間もなく、滝野は母親から貰つた長い手紙の文中に次のやうな一節を発見した。
「……昨日偶々石川老が持参いたせし××雑誌を閲読いたしたる処、文壇内閣欄に於て計らずも御身の名前を発見し、母なるものは弱き哉思はず嬉し涙に咽び入り候 去月御身出京の節御身が私に云ひ残せし言葉は此の度こそは初めて詐りでなかりしこと相解り候 その節私が与へたる男子一と度郷関を出づ云々の古語を此上にも体得せられ度候。一朝秘書官に擬せられたとは云へ驕る者久しからず矣の喩えを忘るゝこと勿れ持して放つべからず 今や父上の亡きと云へども帰らざることなれば此の秋《とき》こそ御身も剣を与へられたる心となりて立ちて行かれたし
 さて秘書官とも相成れば交際場裡に立つ日も多からむと存ぜられ候故伝来の紋服袴一着夏期用取りそろへこの便と共に御送り申し候 罹災の折頭初に持ち出せしものなれば破損も致し居り候ものゝ公席に出づる場合は必ず着用せられ度候、流行云々などゝいふ従来の御身の悪癖は此の際一掃せられたく、伝来の紋服を用ひて心のいましめとなし、万々酒席等に於て失策のなき様祈り居り候 尚夏期用の外出者のなきことを思ひ出し候故公式以外の訪問用としての衣服羽織袴等一組新調の物同封いたし置き候……」
 夕方六時から日本橋の何とかと称ふ、滝野などの未だ行つたことのない大きな料理屋で同級会が開かれる筈だつた。その日は珍らしく彼は朝から起き出でゝ、そわ/\と落ちつかなかつた。
 初めて、新調の羽織、袴を着て出かけることが滝野を可成り嬉しがらせた。さすがに紋服を着用して出
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング