牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浮《う》か/\

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)場合|丈《セイ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#小書き片仮名ヰ、132−11]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)毎晩/\
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「あたしは酔ツぱらひには慣れてゐるから夜がどんなに遅くならうと、どんなにあなたが騒がうと今更何とも思はないが――」
 周子は、そんな前置きをした後に夫の滝野に詰つた。
 田舎で暮してゐた時とは、境遇も違ふし場所柄も違ふ、今ではこのセヽこましい東京の街中で、然も間借りをしてゐる境涯である、壁一重先きには他人が住んでゐるのだ、毎晩/\夜中も関はず大声を発して、加けにどたばたとあばれられたりしては、朝になつて隣りの人に挨拶をすることも出来やしない、まるで狂ひの沙汰だ……。
「それが、たゞの喧ましさとは違ふぢやありませんか、歌をうたふならせめて他人に聞かれても恥しくないやうな歌をうたひなさい。あなたゞつてもう学生ではないぢやありませんか、隣りのマンドリンが煩いなんてよくも図々しく云へたものだ、何処にお酒を飲みに行つたつて屹度鼻つまみに違ひない、几帳面の唄となつたら春雨ひとつ知らないでせう。」
 周子は、あゝ[#「あゝ」に傍点]と深い溜息をついた。
 滝野は、身動きもせず凝つと煙草を喫してゐるばかしだつた。そして小声で、
「ゆうべも酷かつたかね。」と訊ねた。
「ほんとうにあなた、何かお習ひなさいよ、ちやんと纏つた芸を――」
「何が好いだらう、長唄でも……」
「声が悪いから、それもね……」さう云つて周子は、苦笑を浮べた。
「ゆうべはどんなに騒いだ。」
 独りだつたから大して酔つたわけでもなく大体覚えてゐたが、馬鹿/\しくて知つてる振りも出来なかつたので滝野は、狡くそんな退儀な質問を発した。――そして若し周子が、実際以上に少しでも誇張したら、軽蔑してやらうなどと思つたりした。
「いつもの通りよ。」周子は煩さゝうに云つたばかりだつた。
「いつもの通りとは、何ういふことだ、はつきり云つたら好いだらう。」
「都の西北[#「都の西北」に傍点]――を何辺やつたこ
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