ちよつと立ち止まつて皆なでいち時にワツハツハツ! といふ笑ひ声を挙げて見ようよ、可笑しいぜ、山彦が……」
 歌のところは解らなかつたが、誰かゞ束の間の静けさの時に挙げた笑ひ声が、まるで天狗の声でもあるかのやうに梢の間に響き渡つたのに興味を覚へて、私はそんなことを云つた。
「ワツハツハ……」「ワツハツハ……」「ワーツ、ワーツ!」
 私は、芝居の「高時」に想ひを馳せて凝ツと梢に向つて眼をむいた。
 近々都へ向つて出発する私のために村の友達連が集まつて、この森を宴会場に定めて、流れの傍らに幾張りものテントを建て、夜に日をついだ送別会を行つた後に、漸く今になつて引きあげたところであつた。悪口を云ひ合つたり憾みごとを云ひ合つたりした者も悉く打ち溶けて、思ひ/\の仮装を凝らし、踊り、飲み、歌ひ抜いて、名残りなく引きあげて来たところであつた。
「最後にシノンが梢を睨んで、得意の微笑を浮べてゐる姿を一つ撮らうぢやないか。」
 馬を降りて、酔醒めに谷川の水を次々に飲んで一休みしてゐると、誰かゞそんなことを云つて私にレンズを向けた。私はシノンの恋人に扮してゐる私の妻に楯を持たせ、その妹に扮《な》つた居酒屋
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